我々人類は、この世界に生を受けて存在して以来、
誰一人として、真の意味での自由意志を獲得し、
いかなるものにも影響を受けずに、生きられたものは
ただの一人もいない
あるいは、悟った者たちは真に理解しているのかもしれない。
(知らんけど!)
僕たち人間は、普段から
自由に考えたり、
判断したり、選択したり、
行動しているけれども、
実は実は!
それは「思い込み」(幻想)で、
真実を突き詰めていくと、
その先には、必ず誰かの存在がいて、
その誰かが、あたかもあなたに
そのように思考させたり行動させたりするように、
予め仕向けている(設計している)
だがしかし、あなたを操るその彼も、
彼自身、更にその先にいる別の誰かによって、
彼自身もまた、誰かを操るように
思考させられたり、行動させらたり、
仕向けられている(操られている)
そしてその先にいる別の誰かを追って、
更に更に奥深くへ進んでいくと、
その黒幕のような誰かを操る、
黒幕の黒幕のような存在がいて、
そいつが、その黒幕を操っている。
だがしかし、操られている人も、
操られてる人に操られている人も、
操られている人に操られている人に操られている人も、
誰一人として「自分自身が操られている」
ということに気づいていない。
それどころか「自分には自由意志がある」
と思い込んで日々暮らしている。
それはまるでロシア人形のマトリョーシカ
のような「入れ子構造化」した状態で、
世界が構築されている。
例えば、
「アイスを食べたい!」と思ったあなたには
最初からあなたに自由な意思があったのではなく、
「アイスを食べたい!」と潜在意識に植え付ける
アイス会社の宣伝によるものかもしれない。
そんなアイス会社は「お金を稼ぎたい!」
と思って宣伝をしているが、それは本当は自由意志じゃなくて、
アイス会社が利益を出したお金を納税させるように
法治国家の手ほどきが仕向けられているのかもしれない。
そんな法治国家は「国を安定させたい!」
と思っているが、それは本当は自由意志じゃなくて、
自然災害が多い場所に建国された国だから、
人工を増やして、国を永続的に安定的に発展させなければいけない、
という結論を仕向けさせらているように
「自然環境の影響下」によって
思想が形作られている(ある意味で操られている)のかもしれない。
いやいや、あるいは、
遺伝子たちが、自分たちの生存戦略のために、
人間たちを増やして、繁栄させるように、
仕向けているのかもしれない。
いやいやいや、あるいは、
遺伝子じゃなくて、ウイルスが、
自分たちの宿主を増やすために、
人間たちを増やして、繁栄させるように
仕向けているのかもしれない。
いやいやいや、実は、
宇宙人が、未来人が、地底人が、
神様が・・・・。
ちょっと飛躍しすぎたけれども、
話を戻すと・・・・
僕らが自由意志を持っているという
かくたる証拠は、
実はどこにも存在しない。
このように、
自由意志を持っていると思い込んでいる
操り人形状態のことを
ここではオートマトン(自動人形)と呼んでいる。
そして、オートマトンたちを集約しておく
枠組みのことを「アルゴリズム空間」と
ここでは呼んでいる。
はてさて、話を戻せば、結局は、
その黒幕の黒幕の黒幕の黒幕の
本当の黒幕とは、いったい誰なのか・・・?
結局のところ、それは「信じる世界」寄りへ入っていく
(この世界に100%確実性なものは何一つない)
「それはプラッとフォーマーだ!」と信じている人もいる
「それは社会システムだ!」と信じる人もいる
「それはプログラムだ!」と信じる人もいる
「それは法だ!」と信じる人もいる
「それは支配者だ!」と信じている人もいる
「それはAIがそうなる!」と信じている人もいる
「それを遺伝子だ!」と信じている人もいる
「それはウイルスだ!」と信じている人もいる
「それは運命論だ!」と信じている人もいる
「それは宇宙人だ!」と信じている人もいる
「それは陰謀だ!」と信じている人もいる
「それは自然環境だ!」と信じている人もいる
「それは神だ!」と信じている人もいる
まるでどこまで掘っていっても、
底が見えない穴のよう。
人類の歴史を通して見れば、
新しい発見はどんどん広がるし、
新しい解釈もどんどん増えていく。
それはまるで無限に続く穴のようなものだ
あるいは、あらゆるすべての
可能性を集約する
巨大なデータベースの海のようだ
(ここまで上げてきたすべての例に共通する点は、この世界は「運命」や「必然」で成り立つという見方)
もし仮に、アルゴリズム空間の設計者がいるとして、
そいつが何かをコントロールしようとしていたとしても、
そして、僕らが「悟り」なんて難しいことをせずとも、
オートマトン化せず、その枠組みから一瞬でも脱却できる方法があるとすれば、
それは・・・
ただなんとなく、
なんも考えていない境地
(アホへの許可)
「アルゴリズム空間」を定義する要素があるとすれば、
その1つは「論理空間」だということ
(*信じる概念の世界においても、論理空間は構築される。
それは「前提・過程」という概念下に構築される論理空間なのだ)
どんなに複雑化したり、
巨大化したアルゴリズム空間に発展しようとも、
最終的には、すべてが論理へ集約させれていく。
(まるで1本の道のように、すべてが連なっていく)
であるならば、
アルゴリズム空間から抜け出すには、
非論理になるしかない。
つまり、アホへの許可
ひよこ画伯
「どうも、ワタシはヒヨコ画伯です。」
ヒヨコ画伯
「こんな感じで、絵を描いてみました」
ヒヨコ画伯が描いた絵
なんかすっげー分析するネコ
「いやぁ~、実にすばらしい!」
「実に完成度が高く、また難解な絵ですねぇ~」
なんかすっげー分析するネコ
「この形など、本当に計算されつくした美ですなぁ~」
「この絵の裏にはきっと、歴史的背景が隠されておるのでしょうねぇ~」
「この絵を描いたときの作者の心理状況が映し出されるようですなぁ~」
ひよこ画伯
「あ、いや、それね、
最初に黄色い絵の具をキャンバスに
こぼしちゃってね・・・」
ひよこ画伯
「その後にね、テキトーに目とか口とかつけたら、
そんな感じの絵になっちゃったの」
なんかすっげー分析するネコ
「。。。。」
なんかすっげー分析した割に的外れだったネコ
「・・・」
ヒヨコ画伯
「・・・」
ネコ
「マジ?」
ヒヨコ画伯
「割とマジ」
「笑うしかねぇ」
ええと、今日のブログは、
アルゴリズム空間がどうとか、
オートマトンがどうとか、
そんな小難しい話じゃないの、、、、
そんなことはどーでもいいの(今回は)
前置きが無くなりましたが今日の本題↓
何となくへの許可
何かやることに対して、意味は要らない。
何かを試すことに大した理由は要らない。
何かに挑戦することに対して意義なんていらない。
ビジョンも理想もイデオロギーも、
理念も理由も考えも
なーんもいらない。
あるいはね、
誰かと話す時とか、
考えをまとめてから話すことは、
それはそれで、とても素晴らしいし、
大切かもしれないけれども、
だけどもね、それは同時に、
この瞬間にいないかもしれない
その瞬間のノリが消えちゃっている
今この瞬間、
ポーンと自然に出る(出ちゃった)
言葉ってやつもある
より自然体へ
ただなんとなくの境地へ
ただアホだっただけの状態へ
ちゃんとしなきゃ、
空気を読まなきゃ、
正しくしなきゃ、
と真面目になればなるほど、
「ただ何となく」とか
「意味もなく」とか
「アホになる」とか
そーゆーことに対して、
自由になれなくなる。
囚われてしまう。
すると、自由度が下がる。
ノリが重くなる。
そして
何かしらの思考をした瞬間、
何かしらの意味を付けた瞬間、
何かしらの意図を放った瞬間、
論理が発生し、
ゆえに「アルゴリズム空間」へ
収束されていく
でもでも、
「アホになるぞ!」
と言ってアホにはなれないの。
非ロジックになろうとしても
非ロジックにはなれないの
まず最初に設定するのは、
「アホでもいい」という許可
「なんとなく」に対する許可
「思考を手放す」許可
すると「ちゃんとしなきゃ」という
「とらわれ」がどんどん薄れていく。
たまたまだよね
特に意味はないよね
ただなんとなくだよね
そーゆーゆらぎ
そーゆー人間っぽさ
そーゆー意味の無さ
そーゆーくずし方
そーゆー非ロジック
ま、一言で言うと、、、、
「とくになんも考えてなかった」
この境地、この瞬間、このノリで生きられたらいいね
そんじゃ