言葉の限界(言葉という幻想)

 

 

そーいえば

僕はブログの毎日更新を続けて、

そろそろ11か月くらいになるのだろうか・・・

 

 

 

過去にも、アメブロでブログを書いていた時期があって、

そっちは毎日更新はしていなけれど、

そういうのを合わせると、

たぶん3年分くらいは書いたのかもしれない

 

 

 

そんで、思い返せば、

昔から、文章を書く癖はあったなぁ、

って最近、いろいろ思い出した。

 

 

 

会社員時代の時も、

「マニュアルを作る」ということをめちゃくちゃした。

外国の外注さんに作業の手順を伝えるために、

マニュアルを作ってあげたりした。

マニュアルはすごくいい。

たった1回書くだけで、同じ作業を

複数の人に何度も伝えられる。

これは起業してから、めちゃくちゃ役に立った!

 

 

 

そーいえば、思い返せば、

学生時代もたくさん文章を書いていたかも。

大学時代は、英語の作文を

嫌というほど書かされた。

論文もめっちゃ書いた。

 

 

 

そーいえば、小学校時代も、

文章をたくさん書いていた記憶がある。

学校の自由課題で、自分が好きなように、

SF小説を書いたり、漫画を書いたりしていた。

 

 

 

 

思い返してみると、

自分にとって「書く」という行為は、

割と当たり前なことなのかもしれない。

 

 

 

 

ブログを書くときも、

「何を書こうかな」って考えたことが無い。

(別に自慢をしているわけではない)

いつもいつも、

アイデアがたくさん出てきて、

自然にそれを文章にしている感じ。

 

 

 

 

自分は文章を書くのが好きかも。

そそ。

おしゃべりと一緒。

 

 

 

そんで、

文章のスキルとか、

文章の構成とか、

文学とか、

ライティングとか、

そういうことに自分は長けている、

などと思ったことはない。

 

 

 

むしろ、そういうテクニック的なことよりも、

文章で自分という存在がどれだけ表現できるか、

という内面的な方にとっても興味がある。

 

 

 

 

だから僕のブログはPV数とかアクセス数を狙う

一般的なブログとは、書き方が全然違っていると思う。

『個人そのもの』に重きを置いていきたい気がするし、

自分でも無意識にそっちへいってしまう。

 

 

 

 

 

自分で自分のこと、文章が上手いとかも

一度も思ったことないし、

そういうスキルを目指している訳でもないし、

文才があるとか全然思ったことも考えたことないし。

(そしてこのブログは、誤字脱字がめちゃめちゃありますw)

 

 

 

このブログはね、

ただ、頭からフローしてるのを

そのまま書いてる、感じ?

を目指しております。

 

 

 

 

「良いこと書こう」と思い始めた途端、

テクニック寄りになっていきます。

すると「ありのままの自分」の方が、

置き去りにされていしまいます。

 

 

 

おしゃべりと一緒と思うとわかりやすいです。

 

 

 

たとえば、

「〇〇ちゃんに好かれたいから、ちゃんと話そう」

と思えば思うほど、肩の力が入り、

カッコつけ始め、

背伸びしたことを言い始めます。

 

 

 

 

でもでも、本当は、

ありのままの巣の自分で、

リラックスして話したほうが、

相手も緊張せず、すんなり受け入れてくれたりします。

 

 

 

 

この例えがあっているかどうかわからんけど、

そーゆー感じの文章を心がけております

 

 

 

 

そんでね、

そーゆー感じすらも、

手放していいのかもしれません。

 

 

 

いろいろな無駄なものを省いて、

最後に残るのは、

 

 

 

 

「書くのは楽しい。」

っていう感情。

 

 

 

もー、これだけで、

本当は良いのかもしれない。

 

 

 

 

書くのはね、本当に、

おもしろのだよー

 

 

 

 

「正しく書く」ということはツマラナイ。

がしかし、「書きたいことを書く」

(好きなことをする)はとても楽しい。

 

 

 

 

この考え方はとても大切だったりします。

 

 

 

 

で、文章をたくさん書いてきて、

今まで気づかなかったけど、

ようやく、最近、気づいたことが1つあった。

 

 

 

それは「言葉には限界がある」ということ・・・

 

 

ハイ、これが今日のめっちゃ重要な

メインテーマでございまっス

 

 

 

 

 

 

言葉の限界

 

 

言葉では言い表せないことって

たくさんあるよね?

 

 

 

たとえば、

愛を語ってください。

 

 

 

とか言われても、

きっと誰一人として、

正しくそれを書くことはできない。

 

 

 

人それぞれに解釈も違うし、

定義も違う。

 

 

 

 

定義すらできないから、

昨日言ったことと、

今日言ったことが違ってくる、

ということだってある。

(あるあるでしょ?)

 

 

 

で、それはそれで当たり前として

なんとなく、ふわふわしたものを

なんとなくそれなりの形でとらえている。

 

 

 

みんなの「共通認識」みたいなのがあって、

それを介して、

なんとなく「わかったような感じ」で

みんなで愛についてコミュニケーションする。

(ちなみに「愛」はたとえ話ね。「愛」以外でも、

ふわふわした定義しづらいことっていっぱいあるよね?)

 

 

例えば、「正義」とか「生物」とか「自分」とか「美」とか

思いつく限り、いろいろ・・・

 

 

 

 

そんで、100%完璧な定義ができずに、ふわふわしちゃうのは、

それはそれで、当たり前のことなのだけれど、

もう、みんな分かり切っていることなのだけれど、

 

 

 

もっと大切なことは、

 

 

言葉を使いすぎると言葉に支配され本質を見失う

 

 

ということを最近、

めっちゃ考えるようになった。

 

 

 

 

言葉は物事を正確に表せない。

言葉は物事をそれなりには表せる。

言葉は人間が発明した道具(ツール)。

この世に完璧なツールはない。

 

 

 

なのに、言葉をたくさん使う。

言葉をたくさん覚える。

意味を理解する。

その範囲が広がっていく。

 

 

 

そして、あらゆることを知り、知識を蓄え、

それで「自分は世界をより理解した!」

「より大人になった!」

「見識が広がった!」

と思い始めた瞬間、まんまと罠にハマる

 

 

 

 

言葉を操れるようになればなるほど、

言葉に飲まれ、やがて支配されていく。

 

 

 

 

自分が言葉を支配しているように見えて、

それは同時に、自分を言葉の枠にあてはめ、

自身が言葉の枠の中でしか思考できなくなる、

という「2重の構造」で構成されている。

(これが、言葉を使う時に使用者が必然に受けとる代償ともいえる)

 

 

 

 

*これを元プログラマー的に考えて言うとすれば、

「自分」という人間の設計図を自分自身の手で書いたのだけれど、

自分は、設計図の通りにしか、動けなくなってしまった!

設計図に書いていない未知の動きも、思い付きの発言も、

好奇心による行動もできない。

なぜなら、設計図通りの動きしかできないから、

設計図に書かれていないことは、やりたくてもやれないのだ。

(設計図=「言葉」の例え)

 

 

 

そしてそれに気づくことはなく、

本質を見失っていく。

 

 

 

このブログでは「枠」とか

「枠を外す」ということについて

たくさんブログ記事を書いてきたのだけれども

「ちくしょう!枠とはこんなところにもあったのか!」

ってね。

 

 

 

世界とは、自分には知らないこと

気づかないことだらけなのです。

たとえそれが、今自分が見ている目の前の世界においても。

 

 

 

 

知識を得れば得るほど、本質から離れていく

こんな感じのことを言っていた昔の偉い人誰だっけ??

そして、これの意味、めっちゃ理解できた!!

 

 

 

やばっ!!

ずーっと、

グルグルと自分で自分に

踊らされていたわ・・・

 

 

 

これからは、個人的には、

もっともっと「感じる」

を大切にしていこう。

 

 

 

感じる方がよりありのままに近い気がする。

「感じたらそれが真実」とは限らないけれど、

「言葉」以上の〇〇を得られることもある。

 

 

 

 

〇〇とはね・・・

 

それはリアリティのこと。

 

 

 

 

言葉で会話して伝えるより、

実際に自分で体験して感じたほうが

現実味(リアリティ)が半端ないじゃん?

 

 

 

つまり、

そーゆーこと。

 

 

 

そんで、その「現実味」(リアリティ)すら、

本当(ありのまま)に近いかどうかすら、

誰もわからないのだけれど、1つ言えることは、

言葉よりも、リアリティを感じるのだ。

 

 

 

もちろん「現実味」だけじゃなくて、

「言葉より、感じる方が優れている」

という点がもう1つ存在する。

 

 

 

それはアナログである、ということ・・・

 

 

 

それは、つまり、

言葉を使うより、感じる方が

得られる情報量が多いし、

より現実に近い正確さ(アナログデータ)をつかめる、

ということ。

 

 

 

 

「感じる」ということがアナログであるならば、

言葉は、どっちかっていうとデジタルに近い考え方。

言葉とは、多すぎる情報を簡略化するための圧縮ツールみたいなもの。

 

*ちなみに、言葉の中でも、星の数ほどある「漢字」を使う中国語より、26文字と限定した英語の「アルファベット」は、更にデジタル寄り。

 

 

 

でもでも、

そうなってくると、

ブログのような言葉を中心とした表現では

表せなくなってくるものも出てくるよね。

 

 

 

そういう意味だと、

写真や動画はより「現実味」を再現しやすいし、

きっと未来はVRとかARとか、

もっと現実味を帯びたものに

変化していくのだろうと思う。

 

 

*もちろん、VRもARも

リアルには敵わないのだろうけれど。

 

 

 

 

ま、それはさておき、

個人的に一番言いたかったことを

3行で表すと・・・

 

 

ワシ、言葉にばかりとらわれすぎじゃね?

ちゃんと本質を感じてるかい?

最近どーよ?

 

 

ってこと。

 

 

 

「ペンは剣より強い」ってことわざは真実だけれど、

「本質は言葉を超える」ってことも真実じゃね?

と思う。

 

 

 

だからと言って、

結論は出ないし、

何も主張はない。

 

 

 

それに、言葉そのものを否定しているわけではない。

言葉も、それが具体的に必要とする状況では、

とても便利なもの。

それも事実。

 

 

 

だからちゃんと使い分ける。

 

 

 

でもでも、

「感じる」が足りてないな。

というのは思った。

皮肉な感じだけれど、

言葉にして書き続けたからこそ、

そこに気づけた。

 

 

 

 

言霊はある

 

 

いきなり、話は180度変わるけれど、

言霊という言葉がある。

 

 

 

そして、「言霊」はあると思う。

 

 

 

だって、たった一言、

過去に誰かに言われた言葉が

なぜかあなたの心に刺さって、

それが一生続く場合だってある。

 

 

 

たった一言、言われた言葉に傷ついて、

何年も引きずることもあれば、

たった一言、何気ない言葉を言われただけなのに、

希望のようにずっと心に輝くことだってある。

 

 

 

 

良い言葉も悪い言葉も

ときに暗示として、あなたの心に残り続ける。

 

 

 

 

だから、言霊はあると思う。

言霊がずーっと一人の人の思考を支配し続ける。

(良い影響でも悪い影響でも)

 

 

 

 

あると思うと在る

 

 

でも、言葉が

「幻想」になるか、

それとも「言霊」に変わるかは、

意識次第だと思う。

 

 

 

これはまるで、

物理学における原子とか素粒子とか

そういうものの存在と振る舞いに似ている気がする。

 

 

 

原子のほとんどは空っぽ。

でもめっちゃ高速で動いているから、

なんとなく「物体」として存在できる。

(扇風機のプロペラを高速回転すると、

プロペラのすき間は実質、なくなって、壁のようになる。

プロペラのすき間(空間)はなくなり、一枚の高速回転する物体となる)

 

 

でも、動きが止まると、

ほとんど空っぽ。

(扇風機のたとえでいえば、止まったとたん、すき間ができる)

 

 

 

 

物質は、振動しなければただのエネルギーの波。

 

 

 

 

つまり、

 

 

 

 

あると思う(観測する)と、物体化する。

ないと思う(観測しない)と、波になる。

 

 

 

言葉も同じな感じがする。

 

 

 

言葉は幻想であり、心はその枠から解き放てる。

言葉は言霊となり、人の心を支配する。

 

 

 

どちらも真実だと思う。

 

 

 

 

特に主張はない。

ただ、今日のブログのメインテーマは、

「言葉は幻想」という側面を

自分はすっかり忘れていたな、

って最近、気づいただけ。

 

 

 

なのでね、

今後、このブログで「感じる」

の部分ももっと伝えるかもしれない。

(でもね、感じるを伝えるにはやっぱり、動画の方が最適)

 

 

 

 

でも、それに近いことは

書いていくのかもしれないし、

相変わらず、このブログはこのまま、

このスタイルで変わらないのかもしれない。

 

 

 

 

まだ結論は出ていない。

 

 

 

ただ、言葉を除外して本質を「観察」

しようとすると、今まで見えなかったこと、

気づかなかったことに気づけるときがある。

 

 

 

それはとても重要なことだなーと思った。

 

 

 

 

言葉ばかり使いすぎて、

言葉以外の表現方法を見失う。

そんなとき言葉を捨ててみる。

新しい感覚が芽生える。

 

 

 

パソコンでいえば、

データを消去して、

ゴミファイルを捨てて、

スッキリする感じ?

 

 

 

あるいは、例えるなら

GUIじゃなくてCUIを使う感じ。

 

 

 

(もっとわかりやすいイメージで言うと、

スマホの画面に頼らないで、まったく見ないで、

機械の言葉だけでスマホを操作する的な?)

そして実際にこれは可能です

 

 

 

 

まあ、いいや。

 

 

 

こんなとき、自分はいつも、

「後者」(意識飛ぶ族)の天才のことを思い出す。

前者・後者については、こっち

 

 

 

このブログでは「後者のジェダイ」の方々についても

ごくまれに紹介しているね。

 

 

 

ああ、後者の天才は、

こういう考え方をしないんだろうな。

一瞬で、解に辿り着けるんだろうな。

 

 

 

 

今日はなんか、つぶやきブログになってしまった。

まあ、いつも、つぶやいている感じだけどもね。

 

 

「言葉を捨てる」って大切だね。