自分を知るには、最初のスタート地点に気づくことが大切だよね

 

「自分のセルフイメージがどうやってできたのか」

とか

「自分とはどのような人間なのか」

とか

 

 

 

そーゆー大きな問いに対する、

とっーっても深い気づきのお話について、

ちょっと思い出したので、書いてみるよー

 

 

 

いきなり、話しが飛ぶのだけれどもね、

僕のおじいちゃんおばあちゃんのことについて。

 

 

 

おじいちゃんおばあちゃんの話

 

 

 

 

僕はおじいちゃんとおばあちゃんに

ものすごーく可愛がられた記憶がある。

 

 

 

とくに住んでいる距離が近かったので父方の方の

おじいちゃんとおばあちゃんにはよく会っていた。

 

 

 

 

とくにおばあちゃんには可愛がられていた。

なんせ、一族の長男だったので、

めっちゃ、えこひいきされて

めっちゃ可愛いがられていた。

 

 

 

行くたびにお小遣いをもらっていたし、

行くたびに「こーちゃんはスゴイ!」

「こーちゃんは大したもんだ!」

って、まるでテープレコーダーのように

会うたびに、そして会話の途中でも、

何度も何度も、繰り返し繰り返し、言われた。

 

 

 

 

 

そんなおばあちゃんは、

「天使のような優しい人間か?」

というと実はそーでもない・・・

 

 

 

 

むしろ真逆に近い。

おばあちゃん自身に対しても、他人にも厳しい。

(でも、孫たちにはやさしい)

 

 

 

 

そして、

(これは後になって心のことを学びだして気づいたのだけれども)

おばあちゃんは恐らく、人生において、

「何かを悔いていた」

「何かすごい悔しい思いを抱えていた」

 

 

 

それがいつもおばあちゃん自身からにじみ出ていた。

 

 

 

僕にはすごく優しいのだけれども、

自分の息子(つまり僕の父)には厳しい。

 

 

 

そして、おばあちゃん自身に対しても

おじいちゃんにもきびしい。

世間に対しても厳しい。

 

 

 

 

いつも何かに対する不満や文句を言っていたし、

「がんばれ負けるな。競争に勝て!」

みたいな、いわゆる意識高い系な人でした。

 

 

 

 

僕のおばあちゃんを例えていうなら

「崖の上のポニョ」に出てくる

老人ホームで暮らし、青い服を着て、

テレビに向かってブツブツ呟いている「トキさん」にそっくり。

 

 

 

 

あんな感じ。

 

 

 

 

僕はなんでおばあちゃんがあんなに

厳しいのか、よくわからなかった。

 

 

 

でも、過去の話を聞いたとき、

何となく、それがわかった。

 

 

 

 

僕のおばあちゃんは、

地元では名家として育ち、

金融のお仕事を生業にしていたそうな。

 

 

 

大きなお屋敷があり、

土地もたくさんあり、

使用人もいたそうな。

 

 

 

なのに、なぜか知らんけれども、

農家で貧しいおじいちゃんの家に、

嫁ぐことになってしまったのだ。

 

 

 

おそらく、戦時があった時期だったから、

「食べ物に困らない農家に

娘の一人くらいは嫁がせよう」

という一族の生存戦略によるものだったんじゃないかな、って思う。

 

 

 

そんで、おばあちゃんはそれがすっごく嫌だったそうだ。

 

 

 

 

なんでこんな貧しい家に嫁がないといけないのか。

なんで辛い畑仕事を毎日手伝わないといけないのか。

 

 

 

ちなみに、僕のおじいちゃんはいつもニコニコ笑顔で、

おばあちゃんとは対極的な人でした。

 

 

 

 

いつも嬉しそうで、

誰が何かをしてあげても、

いつも「ありがとうありがとう」ってニコニコ笑うものだから、

本当にいろんな人に愛される達人のようなおじいちゃんでした。

 

 

 

 

そんで、おじいちゃんのおじいちゃんは、

バイオリンとか弾いていて、

あんましその時の話は知らないのだけれど、

なんかおじいちゃんの血筋はなんとなく

「スローライフ系」な印象を受けました。

 

 

 

そんな中、おばあちゃんの家の方では、

戦争のために、今までの仕事はできなくなり、

また、もっていたたくさんの土地も、

国に没収され、ほぼほぼ壊滅状態になってしまったそうな。

(いまでは、一族の家が1件だけ残っているけれど、もうみんな散り散りな感じ)

 

 

 

僕から見ると、なんだかかわいそうな境遇だなぁって、

ついつい思ってしまうのですが、

おばあちゃんが、いつも何かに対して不満を持っている理由

というものの原因が見えてきたような気がしたのでした。

 

 

 

 

そんなおばあちゃんですが、最後にはハッピーエンドが待っていました。

ある日、おばあちゃんは体が弱り、一人では生活できなくなりました。

そこで、みんなで話した結果、おばあちゃんは施設暮らしをすることになったのですが、

なんだかそこでの生活がまるで夢のように楽しいらしく、

性格が真逆に反転したかのように、びっくりするくらい笑顔でした・・・。

 

 

 

施設では毎日、何かしらのアクティビティがりました。

「月曜日は書道教室があった」とか、

「火曜日はみんなで遠足に行った」とか、

「水曜日は、自分だけお絵かきの特別賞をもらった!」とか。

おばあちゃんはうれしそうに話してくれました。

 

 

 

 

何十年もの間、農家として生活し、

畑仕事しか知らなかったおばあちゃんにとっては、

施設での生活が、すごく社会的で社交的で、

潤いがある生活だったのかもしれません。

 

 

 

 

そんで、おばあちゃんの話はこれで終わり。

 

 

 

 

 

そして、おばあちゃんの

「厳しい性格」

「厳しい世界観」

「頑張らないといけない主義」

「人生は辛いものなんだという価値観」

 

 

 

 

 

これらは僕の父へと伝承されていったのでした。

 

 

 

 

そして、ついこの前まで、

つまり僕がこのブログでもおなじみ

「ジェダイの教え」に出会うまでは、

僕自身も、父からの「厳しい世界観」

を伝承されたまま人生を送っていたのでした。

 

 

 

 

しかし、父から受け継いだこの「厳しい世界観」

は僕の代で終わりです。

僕はもうそっちへ行かない、

って決めたからね。

 

 

 

そして実は、僕の心の中には、

おじいちゃんの「スローライフ系」の血筋も

残っていたりするんです。

 

 

 

 

だからこそ、僕は、自分自身の状況について、

気づけたのだと思います。

 

 

 

 

だいぶ、話が長くなりましたが、

あと少しだけお話します。

とゆーか、ここからが本題です。

 

 

 

 

自分を知るもの

 

 

 

自分を知るものは、

外の遠い世界の言葉にあるのではない。

 

 

 

 

自分を知るための大切な鍵は、

自分の身近な存在にある。

 

 

 

 

僕らは、自分の人生をもっと

良くしたい、もっと成長したい、

そーゆー思いで、

毎日、一生懸命だったりします。

 

 

 

そしてそれはそれで良いことだと思う。

みんな「良かれ」と思って、

毎日、本当に一生懸命に生きている。

 

 

 

だからこそ、

心のことを学んだり、

人間関係を知ろうとしたり、

社会で成功しようとしたり、

がんばっている。

 

 

 

でもでも、

「自分のセルフイメージ」について探ろうとするとき、

自分のことについて書かれた「宝もの」は、

自分の知らないはるか遠くの世界に隠されているわけではないのだ、

ということ。

 

 

 

それは、

何世代も守られてきた偉大なる図書館の中に眠っているわけでもないし、

最先端の研究や学問を扱う大学の中にあるわけでもない。

偉人が語った言葉の中にあるわけでもない。

成功者が書いた本の中にあるわけでもない。

もちろん、このブログ記事の中にもない。

 

 

実は、あなた自身を解き明かす、

一番重要な手掛かりは、

遠い遥か彼方のゴールにあるのではなく、

後ろを振り返ったときに見える。

それは、既に遠くになってしまった、

 

 

 

自らの意志で去ってしまった

「最初のスタート地点」に眠っていたということ

 

 

 

 

「だがなんということだろう!」

 

 

 

もう僕は、おばあちゃんには会えないんだ!

 

 

おばあちゃんは今、天国で安らかに眠っている。

 

 

僕は置き去りにしていたのだ。

 

 

古いもの、

変わらないモノ、

つまらないもの、

ちいさいもの、

弱いもの、

実利にならないもの、

成長とは関係ないもの、

 

 

そーやって、

僕は、そーゆーものから遠ざかった。

 

 

そして、

凄いもの、

キラキラしたもの

偉大なもの

一流なもの、

すばらしいもの、

成長できるもの、

便利なもの、

役立つもの、

利益になるもの、

 

 

 

そーゆーものたちを求め、

僕は自らの意志で、

スタート地点を去り、

まるで「移り変わる幻想」の

ようなふわふわしたゴールを追い求めて、

彷徨い始めたのだ。

 

 

 

だがしかし、

本当の宝物は、

最初の地点にあったんだ。

(ああ、僕は今となっては、スタート地点からかなり離れてしまっていたのだ。やっとそれに気がつけた)

 

 

 

 

だがしかし、もう誰も

「おばあちゃんの記憶」

にアクセスすることはできない。

 

 

 

 

歴史とは

「あらゆる知恵の源である」

 

 

 

 

だけれども、

歴史とは「偉大な歴史書」だけが

大切なわけではない。

 

 

 

 

あなたにはあなただけの。

僕には僕だけの。

人には人それぞれ、そのひとだけの

大切な歴史がある。

 

 

 

 

「敵を知り己を知れば100戦危うからず」

 

 

なーんてことわざがあるけれども、

僕らはいつだって「自分自身」について知ろうとするより、

「相手のこと」を探って生きている。

相手(世間・世界)を気にして生きている。

 

 

 

 

キラキラな相手を追い求め、

嫌な相手を避け、

幻想のようなゴールを求め、

幻想のような地獄を避け、

 

 

 

最初にスタートした場所を忘れ、

自分が何者であるかも知らずに彷徨い続ける。

 

 

 

自分を作っているより大きな要素とは、

自分の最も身近にいる自分以外の人たち

 

 

 

これはつまり、こーゆーこと↓

 

 

あなたはあなた自身を語れない。

(人には全員、盲点(自分で自分のこと分らない点)を持っている)

だけれども、あなたを良く知っている人は、

あなたについて語ってくれし、あなたという存在が

どのようなものであるかを気づかせてくれる。

 

 

 

 

これに気づけたとき、

外にあるノウハウより、

より内側にある「在り方」

についての意識が高まっていく。

 

 

 

 

あばあちゃん、おじいちゃん、

ありがとう。

 

 

 

大切なことを気づかせてくれて、

ありがとう。