意識高い系の先にある意識低い系の世界へ

 

『意識低い系』が実はものすごくステキなことなんだなぁ、

って最近本気で思ってるけど、その境地になるのが、

大人な自分のままだと難しいなって、ジレンマに陥る。

 

 

ちなみに、世間で揶揄されている「意識高い系」っていうのは、

時と場合によっては必要な時もあるのだろうけどね(非常時とか)、

でもでも、なぜ、あんまし良い印象にみられないのか、

その理由を考えてみたところ、

 

 

 

 

意識高い系は脳みそが「OR思考」なんだなって。

〇✖で世界の物事を分断してしかとらえることができないから、

対立思考が生まれてしまうのだね。

 

 

 

 

たとえば、強者と敗者に区別し、

強者になるための論理だけを展開するとか。

 

 

 

たとえば、イデオロギーを打ち立てれば、

そこにやがて「正義」が発生し、

それに反対する者は「悪」にならざるを得なくなるし。

 

 

 

たとえば、自分が成長したいという理由を持つと同時に、

現状の自分に対する自己否定が始まってしまい、

外側にある立派なセルフイメージに向けて

頑張って上り詰めるほど、自分自身と分離してしまったり。

 

 

 

あるいは「社会問題を解決するんだ!」って躍起になってるほど、

「それ以外の事象」が見えなくなり、

結局「それ以外の事象」からリソースやエネルギーを採取し、

それを「問題」に充填して「問題を解決した」と勘違いする。

 

 

 

でも、実際には、今度は「問題ではなかった別の事象」に副作用が発生してしまう。

*これってパソコンで言うところの、デフラグ(整理)しただけの現象に過ぎない。

あるいは「問題が解決した」のではなく「状態が変化した」と表現した方が近い。

(本来の問題解決とは、相反する2極を相殺させ0に戻すこと)

 

 

 

 

 

そんな感じでね、意識を高くするほど、

対立してしまう点が色濃くなり、

そうなれない人やそうなりたくない人にとっては、

なんだか堅苦しく、閉塞感や緊張した雰囲気を感じさせてしまう。

 

 

 

 

みたいな。

 

 

 

 

じゃ、逆に意識低いことは良いことなの?

って考えてみると、、、

 

 

 

 

「意識低い」って聞くと

なんだか「怠けている」とか、

「仕事できない」とか、

「やる気がない」とか、

「自分さえよければ」とか、

 

 

 

なんかそんな堕落したイメージと

結びつきやすい気がするのだけど

(もしかしたら自分だけかも?)

 

 

 

 

でもね、でもね、

僕は思ったのだよ

 

 

 

 

意識高くして、高くして、

高くしすぎて一周回って、

逆に「意識低い系」に行き着く

 

 

 

みたいな世界。

 

 

 

ここで言う意識低い系とは、

 

 

「思考を手放し、より抽象度の高い概念とか形而上学的なことを取り扱える余裕や態度があること」ゆえに「自我にとらわれ過ぎない」

 

 

みたいな感じのことを言いたかったの

 

 

 

 

たとえば、思考を手放し、

アホになることの大切さ。

自分と言う「個体」にできるだけ執着しないことの大切さ。

 

 

だけどもね、

アホになっても、

自暴自棄になったり、

周りと調和の取れない無秩序な自分になったり、

そーゆーいわゆる一般的に思われている「意識が低い」

っていう概念じゃなくて、

 

 

 

アホになることで、

クリエイティブなことしたり、

それをめちゃくちゃ楽しんだり、

それをしている自分が幸せの最中にいたり、

新しい何かを産み出したり、

 

 

 

みたいに、

自分にとってプラスになること。

 

 

 

そして、それ以上に、

アホになることで、

 

 

 

みんなの希望になったり、

みんなの夢になったり、

みんなの幸せに貢献できたり、

 

 

 

みんなが緩んで、緊張がほぐれ、

対立感情が薄れ、

やがて全体を考えられる人が増え、

平和になっていったり、

だからよって「秩序」が形成されたり、

 

 

 

みたいな感じで、

自分以外のみんなにとっても

よい状態のこと

 

 

 

 

つまりOR思考によって、

世界を分断して、差を生むのではなく、

 

 

 

すべてを1つの円の中に取り込んで、

自分と他者が良い調和のとれた状態で、

それぞれが自立して存在し続けられるような状態とか世界観。

 

 

 

思考を手放し、

感情や感覚で豊かに今この瞬間を生きる本人がいて、

 

 

 

なんか知らんけど、その周りによい空気を作り出し、

それに人々が集まって、

その「楽しい状態」の人を中心に、

その周辺の世界は幸せモードに包まれていくみたいな。

 

 

 

そーゆー感じのハーモニー。

調和。

2極に分断されるという概念より、

全部が1つに統合するとか

溶け込む、というような感じの概念。

 

 

 

僕がイメージする「意識低い系」

ってそんな感じ。

 

 

 

 

 

このブログではね、

僕の頭の中の一部を文章化しているだけに過ぎない。

そして、文章化しているとき、

 

 

 

 

それはつまり言い換えるとロジックを使って表現をしている。

それをさらに言い換えると論理思考をしているんだ。

つまるところ、意識が高い状態なんだ。

 

 

 

 

つまり、このブログ

「好きなことしてい生きていこうよ」は、

あくまでもプロセスしか表現できないんだ。

 

 

 

「好きなことしていきたい」(願望)

「好きなことして生きてる」(今この瞬間)

 

 

 

 

まるで別物ってことさね!

 

 

 

 

でもね、僕は思うよ。

「アホの境地」

今まさに「その瞬間の現象」なんだな。

 

 

 

 

つまり、ゴールそのものなんだ。

 

 

 

 

僕は自分が大好きな音楽をしているとき

「今その瞬間」を楽しむというゴールにいる。

 

 

 

でも、頭で考えてブログを書いているとき、

意識を高くしてプロセスを表現しているんだ。

 

 

 

 

そんで、僕にとっては、

こうやってプロセスを考えてそれを表現することも大切だと思ってるし、

(これは意識が高めなんだよね)

(もちろん、ブログを書くことも自分のために必要なことだと思ってるからやってるのだよ)

 

 

 

 

そして逆に、自分が大好きなことに没頭してるとき、

「今その瞬間」を自分の好きなことで楽しむ、

夢中になるとき、僕はアホの境地。

(こっちが、僕が思う「意識低い系」の世界)

 

 

 

 

どっちも大切だとは思うのだけれどもさ、

そもそも意識高くして考えている動機っていうのは、

やっぱり自分が幸せになりたいからなんだな。

そんでそっちがゴールなんだな。

 

 

 

 

であるなら、もう僕は

今この瞬間から「ゴール」を味わう、

このゴールを味わえる瞬間、瞬間の時間を、

今後の人生においては、出来るだけ長くしていきたい。

そう、思えるようになってきたよ

 

 

 

つまり言い換えると

「意識高くしている時間」より

「意識低くしている時間」を

人生の中で増やしていきたい。

 

 

 

 

でもね、大人になるほど、

怖がるほど、不安がるほど、

「アホになる」が難しいよね

 

 

 

そんなときね、

僕はお散歩にでかけるんだ

 

 

 

 

そこで、近所の公園とかで

5歳くらいの子どもが

「キャーキャー」言いながら、

何も考えずに走っているのを見る。

 

 

 

 

 

ワタシ思う。

 

 

 

 

 

「そうそうそう!」

「コレコレ!」

「これなんだよ!」

 

 

 

 

 

って、思う。

でもなかなかあの境地に

行けない自分がいる。

 

 

 

 

だからね、そんなときこそ、

大人な僕は、頭を使って

答えを探す。

 

 

 

 

そんでやっぱりね、

思ったよ。

 

 

 

「はしゃいでる人」を探しに行こう。

 

 

 

それも「自分と同じジャンル」

「自分と同じ世界を生きている人」

「自分と同じ世界観の人」

っていう感じで、

会いたい人のターゲットをより明確に絞っていきたい

 

 

 

 

そんでね、そのやり方は

今までの体験を経て、自分でも

少しずつコツを掴んできているから、

今の自分だったら、きっと上手くやれる気がするんだ

(そのコツについては、例えばこーゆー記事でも書いたかな)

 

 

 

だからね、まとめると、

最近の自分は、意識低くなることに

もっともっと自身に許可していこう

って思ったよ

 

 

 

 

そんな感じ

 

 

 

そんじゃ