何でもかんでも、アレコレ悩むと、すぐに論理思考を
展開てしまう現代人ワタシは、
すぐに周りが見えなくなるから、そんなときは、
より高次な視点から物事を見ることから心がけたい。
論理よりも、抽象度が高い世界。
お花畑世界へよーかそ!
急に話は変わるけれども、
僕は映画が好きだ
映画の中でも特に、
SFとファンタジーが好き
(あとギャク系も)
ずっと前に、
なぜ自分はSFとファンタジーが好きなのか、
ふと考えてみたことがあった
そんで、たぶん自分は、
「この世界に存在しないもの」
「現実じゃなくて理想的なもの」
そーゆー類のものに心惹かれてる自分がいる、
って感じたんだ
そんでね、
そーゆー類のモノって、
すっげーモロい。
弱い。
すぐ死ぬ。
繊細。
はかない。
フラジール。
無くても生きていけるもの。
非現実的。
そんな感じの概念と結びつきやすい。
そして実際にそーゆーものでもある。
ガリガリのカチカチのコテコテの
安定した、堅実なる、信頼のある
リアルな現実世界においては、
お花畑的SFファンタジーなものたちは、むしろ
邪魔なモノ、
無駄なモノ、
要らないモノ
だったりする。
現実を生きるとき、
現実を直視して、
現実に沿って、
現実的に「思考・決断・行動」
をしなければならない。
じゃないと、
死んでしまう。
生きられない。
食べていかれない。
でもねでもね!
非現実的で、
生産性も無くて、
もろくて弱くて、
すぐ死んじゃう、
そんな「お花畑世界」
だからこそ!
だからこそ、
必要な場面が出てくるんだ
お花畑にしかできないこと。
お花畑だから輝くこと。
お花畑に救われること。
オートマトンと論理思考
論理思考をしているとき、
もしかしたら僕たちは、
オートマトン(自動人形)になっている
可能性が色濃い。
思考しているとき、
点であるデータとデータを
つなぐ作業のようなことをしている。
だけれども、そのデータも、
そもそもアルゴリズムの上位空間
(僕たちをコントロールしている概念)から、
与えられたものだし、
それらデータたちを繋ごうと、
あくせく頑張っているそのそもそもの動機も、
アルゴリズム空間の支配層によって
与えられている。
あらゆる動機が「生産活動」に基づいているのであれば、
僕らがオートマトン(自動人形)であることの確率が
かなり高まってくる。
*オートマトンとは、
自由意志を持たず、誰かに無意識化で
コントロールされている状態のこと。
物事を生み、問題を解決する(仮)空間
そんなとき、僕は
お花畑のことを思い出す。
頭ファンタジーなことを考え始める。
論理思考を超えた先にある、
もはや「妄想」とも思えるレベルで、
物事を展開し始める。
そう、そんなことを可能にしてくれえる世界へ、
閉じこもるのだ。
それこそがこの(仮)空間なのだ
(お花畑の世界へよーかそ!)
「僕はヒヨコじゃないよ。ヒヨコのおばけだよ」
「この世にいない僕は、目に見えない存在なのさ」
物事をまず初めに、想像で考える。
つまり、頭の中で
大きな(仮)を作る。
仮の空間においては、
本物としてとらえ、逆に、現実世界の事象を
虚構なもの(仮)としてしまうんだ
(仮)とは、
「そーゆーことにしておこう」
とゆーこと。
この「そーゆーことにしておこう」
という態度から、
この世界に新しい何かが生まれ、
またあるいは、
この世界で悩んでいる問題を解決に導く。
アインシュタイン先生
「なんか悩んでいて解決できないときは、
抽象度を上げると解決できるっしょ」
みたいなことも同じことかもね。
この(仮)の「イマジナリーリーズン」(架空の理由)を
自分に都合よく作り上げ、
そこからアレコレの論理を展開していく。
たとえば、もしあなたが人間関係で悩んでいるのであれば、
(仮)の空間へ逃げ、そこから
イマジナリーリーズンをでっちあげ、
現実世界の解決策へと落とし込んでいくんだ。
例えばね、もしあなたが誰かに怒られたとき、
悲しむこともできるし、解釈を変えることも出来る。
こんな風に
「きっと心配して怒ってくれたんだ」
「きっと別のことでイライラして怒っていたんだ」
「実は怒ってたんじゃなくて、照れ隠しだったんだ」
「きっと本当は好きだから怒ったんだ」
相手が思っていることの真実を知ることより、
自分に幸せなフィルターをかけて、
盲目のまま「自分にとっての幸せな解釈」をして
幸せなまま過ごす、
ということも、これはこれで1つの解決案になりうる。
例えば、上記のような解決案を受け入れたいかどうかは、
問題に直面している人それぞれ違うし、
それに、このやり方以外のイマジナリーな解決案を
(仮)の空間からもっとたくさん導き出すことだってできるんだ。
そしてこれは、
人間関係だけの問題ではなく、
様々な分野を超えて、普遍的に
取り入れることができる。
つまり、簡単に一言で言うと
見たい現実は、自分の外(現実の世界)の中にあるのではなく、
見たい現実を自分の中(仮)で作り上げる
論理思考なんてものは、
そのスタートポイント(拠り所)が変わるだけで、
その存在意義が、180度がらりと変わったりするくらい、
実はあいまいなモノなんだ
そんな曖昧なものは土台じゃなくて、ツールに過ぎないんだ
ツールに過ぎないのであれば、
その拠り所は、(仮)の空間の中から生み出し、
それを基準にして生きればいい
と最近、そんな風に思えてきたんだ
でもでも、それってよくよく考えてみると、
「自分軸な生き方」だなぁって。
自分が見たい世界を自分作り、展開していく。
そしてそれがのちに、現実世界に
物質化していく。
そーゆー順番が、
本来正しいんじゃないだろうか、
って今更ながら、
改めて強く腑に落ちてきた。
たとえばね、僕の場合だったら、
今後は「楽しいこと」とか「はしゃぐこと」「感動」
そーゆー概念をもっともっと大切にしていきたいし、
だからこそ、論理を手放して、
その先にある感情や感覚の世界で
自分の心を満たすことを先にしたい、
って思うんだよね
そして何より・・・
(仮)の空間ではすべてが自由自在
想像の世界において、
あらゆるすべてが許されるんだ
だから
「ドラゴンボール7つ揃ったら何したい?」
「なんでもできるとしたら、何したい?」
ってジェダイのお一人である、
高橋歩さんが昔言っていた質問を思い出したんだ。
例えば、こーゆー「人生にとって割と大切な質問」
に対して、自分自身がじっくりゆっくり向かい合える、
そんな静かな(仮)空間を持つことが、
どれだけ大切なことなのだろうって、
今更ながら、改めて思い知らされたんだ
だってさ、普段の現実世界の生活を中心にやってみたらさ、
まったくもってぜんぜん、理想通り行動できないことなんて、
山ほどあるじゃん?
知ってた!
ってだけでさ、
やれてない自分。
忘れてる自分。
気づいたらアレコレ論理思考している自分。
そんなことをしているうちに、
現実の些細なツマラナイ事象にとらわれて、
挙句の果て、不安がり、悩み、恐怖によって、
「これくらいはしょうがない・・・」
といってB案(妥協案)を無意識のうちに選択してしまう。
そしてそれが妥協であることなんてこともとうとうわからなくなる。
そして本当に好きなことも曇ってくる。
もっとひどいと、これくらいでちょうどいい、とか思っちゃったり。
そんで、そういう風にしてしまう自分を責めることは一切しないよ。
だって人間はそういう風に下へ下へ流れてしまうようにできている。
そーゆー機能をデフォルトで持って生きている。
それが人間だもの。
だからね、これに気づけたってことに対して、
「自分、偉いね」ってことだから、
ちゃんと自分で自分を褒めてあげているの
枠の中(今与えられている環境)で思考するより、
枠の外(仮)の空間で思い切り、
自由自在に泳ぎ回りたい。
するとどうだろう。
お花畑なファンタジー世界が、ふわふわした
「この世に存在しない幽霊のようなもの」
ではなく、
まるで鏡のように、この現実世界を映し出しはじめる。
こちらのリアルがまるで映し出された現世(うつしよ)であるかのように。
そんじゃ