自分が思考することを辞め、
その思考する行為すらも誰かにゆだねてしまう、
という大胆な勇気の先に待っている世界がある
この記事では、
「思考を手放した先の世界」
について、書いていこうと思う。
そしてそこを見出した時、気づくんだ。
「ああ、その辿り着いた場所すらも
『スタート地点』にすぎないのか」
ということに思い知らされる。
その前に、まず、順番にまた書いていこうと思ふ。
今日の記事も再び、昨日の記事
「思考を捨てる勇気と神秘の「なんか知らんけど」の世界」の続きね
この世の中の世界の仕組みそのものは、
「複雑系」の物理法則の影響によって、
それを計測することも定義すること法則化することもできないし、
その情報量は時間軸の中で、常に右肩上がりに増していき、
理論上「無限」となるので、
もはや、計測をやることが不可能となるし、やる意味がなくなっていく。
だがしかし、この世界そのものには、
「なんか知らの秩序」が宿っていて、
それが「何かしらの豊かさ」を生む。
ということだけはわかっている。
これを前回の記事では
「ブラックボックス・エンジニアリング」
と名付けた。
そんで、ブラックボックスの中には
オートマトンの妖精たちがいて、
彼らの多くは「毎回同じ結果を出す作業」
をするのだけれども、
そのうちのごく少数の妖精
の中には、そもそもの「作業そのもの」を
定義したり「作業範囲という枠」を作り上げる
「思考する妖精さん」たちが存在する。
だから自分自身は思考することを手放して、
そんな彼らに、思考することすらも
お願いしてしまうのだ。
本当は、自分自身が見出した考えなんて、
この世界全体のまだ見えていない部分の英知と比べたら、
小さすぎて、まったく取るに足りないものばかりなんだ。
もし、自分のアイデアや自分の計画や
自分のコントロールしたいという我欲に
とらわれているとき、
「自分の思考を手放す」
なんていうことは怖くて絶対にできない。
でも、本当は、手放すことで、
オートマトンの妖精さんに、
その行為自体がバトンタッチされていく
思考を手放した後に残るもの
それでも、勇気を出して、
思い切って自分の思考を手放したとき、
気づくんだ。
ああ、まだある。
まだ残っている。
自分の中にはまだいろいろある。
今まで忘れかけていた、
見ようとしていなかった存在
にようやく気付き始める。
思考を手放した後、
論理より抽象度の高い概念
が自分の中に宿っている、
ということに気が付く。
そもそも「〇〇したい」
という気持ちに
「〇〇したい理由」なんて存在しない。
「理由」という論理があって、
「したい」という感情が動くわけじゃない。
「したい」という気持ちがまず最初に生れたんだ。
そこから「それをするにはどうしたらいいか」
という論理が展開されていく。
感情→論理
の順番。
思考しているときは、論理にすがっているから、
それより上位にある概念のことを
認識できない。忘れる。
「そもそも」に立ち返ったとき、
そこには理由なんてなかった。
「ただ、そうしたい」
っていう気持ちだけ。
結局、一番大切なところへ戻っていく
そして、思考を手放し、
それでもなお「自分の中に残っている何か」
の存在に気づけたとき、
やはりまた、ここへ戻ってくる。
例えば、こんなものたちが
自分の中に残っていたりする。
(きっと、人それぞれ、持っているものが違うはず)
「楽」であること
「はしゃぐ」こと
「脳みそスパークする」こと
などなど
もし自分が「楽」の状態でいられない場合、
何かが間違っている、
そんな風に考える。
「楽」の状態じゃないとき、
自分は幸せじゃない。
きっとそれは、自分の中の何かが空回りしている。
「恐怖」によって自分自身が
「自動機械」(オートマトン化)している。
*誤解が無いように言うと、すべての人間関係は相対的なので、
自分自身が誰かに貢献しているときは相対的に自分自身が思考する側になるときだってある。
それは別に悪いことじゃない。問題は、恐怖にとらわれることが厄介なんだ。
恐怖にとらわれたとき「オートマトン化」(つまり心を失う)になっていくんだ。
心を失った者はアルゴリズム空間にとらわれる(つまり、言い換えると、自由意志で動けなくなり誰かにコントロールされる)
オートマトンについて詳しい説明→こちらの記事
アルゴリズム空間についての詳しい説明→こちらの記事
そして逆に、自分自身がオートマトンを動かす側となることもある。
我欲で誰かをコントロールするのではなく、ブラックボックス・エンジニアリング
(自然界の法則)によって結果的にそうなるようになっているんだ。
そんで、どちらの状態にも行けたら自由になれるね。
そして「はしゃぐ」の状態のときは、
今この瞬間にフォーカスできているから、
熱中・没頭のフローの中で生きている。
だからその瞬間は恐怖にとらわれていない。
「はしゃぐ」が過程であり目的そのものであり、
この2つが同時に重なり合わさった状態になっていること
そのとき、夢目標ゴールが消滅する(他人軸、エゴにとらわれている状態)
そして「今したいから、それをしてるんだ」っていう
気持ちだけが残る。
そして最後に、
「脳みそスパーク」したときというのが、
それが最初の動機だったんだ。
自分という宇宙のビックバンだったんだ。
そこに理由は要らない。
たまたまの偶然でピカって光ったんだ。
それは現象にすぎない。
自然界の中で、エネルギーとか物質の寄せ集めが、
複雑系の法則の中で、たまたま「ピカっ」って光った。
で、それがたまたま
自分の人生の中で通り過ぎた
無数に起こる1つの自然現象に過ぎなかっただけ。
その現象は、自然界側から見たとき、
そこに本来の意味はない。
(意味はロジック。それは人間が勝手につけたもの)
本来、意味はない。
ゆえに理由も要らない。
あとはそのスパークした気持ちを
持ち続けたいという信念だけ。
(好きなことするの原点)
*別に自我そのものを否定する必要はない
(つまり、スパークした体験を自分の大切なできごとにしちゃってもいい)
それが「個々人の人間性」という属性らしき特徴となるのだから。
がしかし、恐怖にとらわれたとき、自我は膨れ上がり、自分を蝕む要因となる。
「ピカっ」って好奇心のようなものがスパークした後、
自分が動く原動力は、恐怖から起こる「論理」ではなくて、
「感情」から沸き起こり自分を突き動かしていく信念。
後は自分の気持ちに従って動くだけ
思考を捨てた後、
自分の感情とか
(この上には更に感覚とか)
もっともっと、
広い広い世界が待っている。
そこに気づけたとき、
ようやく自分の小さな思考を
手放す準備ができたのだ
そしてそれを手放した後、
ようやく自分はスタート地点に立てる
思考を捨て去った後に
「自分の中に残ったもの」
を今度は、
「なんか知らんけどの世界」、
巨大なブラックボックス地球の中に
投入して、回し続けていくんだ。
その結果を良いものも
悪いものも全部含めて、
あるがままに受け止めていく。
全部、自分の結果。
自分の見ている世界。
常に畏怖の念を持つ
そして最後に、
ここまで気づいたことを、
すべて手放す。
ここまで自分が気づけたことは
自分の能力ではないし、がんばりでもない。
たまたま自分を通り過ぎた1つの自然現象に過ぎない。
そして、ここまで気づけたことすら、
実はこの世界の真の姿のうちの、
氷山の一角ですらない、
という畏怖の念を常に持ち続けたい。
物理世界において「思考」とは、
枠の外の存在に気づくこと、認識すること
だったけれども、
「思考を手放した先の世界」では、
畏怖の念を持ち続けること、
素直に世界を見ることで、
自分がまだ見えていない世界の
さらに巨大な部分について、
自然が見せてくれるようになる。
思考を手放した先の世界では、
言葉(ロジック)はもう無意味となる。
ゆえに思考する行為そのものを超える。
論理より抽象度の高い概念は、
それを記述することができないのだから、
あとは自身で体験していくしかない。