があるとすれば、
それは恐怖から完全に脱却すること
それはアルゴリズム空間から脱却すること
な~のか~もね~♪
またまた前回のブログ記事
の続き。
「好きなことする」
の人生に立ちはだかる壁は
突き詰めていくと
「恐怖」という概念に集約される。
結局は、恐怖があるから、
自分の行動範囲が制限される。
そんで行動範囲が制限すると、
人間は、オートマトン化する。
(枠内をロジックで統制可能となる)
その人の行動パターンは、一見すると、
その人その人、人それぞれの自由意志により、
それぞれ無数に展開されるけれども、
結局、誰しも、だいたい同じ結果(ゴール地点)
に辿り着くように、
まるであたかも最初からプログラミングされていたかのように、
そんな風に振る舞う。
それはまるで自動機械(オートマトン)のように。
オートマトンたちは、アルゴリズム空間にとらわれ、
そこから逃げ出すことができなくなる。
まるで映画マトリックスのような概念じゃ。
(アルゴリズム空間とは、簡単に言うとプログラムされた枠)
だけども、マトリックスみたいな、
完全にコントロールされた世界と言うのは、
おとぎ話の世界ではなくて、
実は現実世界がモデルになっていて、
昔から、歴史を通して見れば、
大なり小なり、僕らは仕組まれたアルゴリズム空間
の上で、まるで自分が自由意志でも持っているかのように
振る舞っている。
でも、大本はコントロールされている。
例えばさ、簡単な例で言うと、
法律とか、マナーとか、
絶対に超えられない「枠」みたいなものが
存在していて、それが人々の行動を
ある程度決定している。
*そーいえば、グーグルってなんかリアル版マトリックスみたい・・・
でもでも、もっとミクロで見ていくと、
何か物を買うことから、なんとなくスマホをいじることまで、
すべて一連の行動には自分の自由意志じゃなくて、
いろいろなアルゴリズムの組み合わせによって、
結果的に「そう動かされていた」という側面があったりする。
(もちろん、全部が全部、そうだとは言わないけども)
そんでそれを僕は善悪で決められない・・・。
(まあ、本人が幸せなら、それでいいじゃん?)
*システム側はどうやって大衆を幸福にするか、
という理念でシステムを設計しているのだから。
(そーじゃないシステムもたくさんあるけど)
でもでも、
1つ気づいたことがあったよ。
好きなことを突き詰めていくとき、
やがて「自分の思考そのものすら手放す」こと。
ということが前回のブログ記事の内容だった。
で、その先は「感情」とか
「感覚」とかで動いていく世界だから、
そっち大切だよねー
っつーお話でした。
で、それがオートマトン化から脱却する
唯一の道のように見えてくる。
オートマトン化からの脱却
オートマトン化からの脱却について
考えるほど抜け出せなくなる、
という罠がある。
すなわち「オートマトンの脱却方法」
を見出そうとすると、パラドックスに陥る。
それは前回もお話したとおり
「思考」と言う枠があるため。
論理の積み上げでは、論理空間(アルゴリズム空間)を超えられない。
*超えられてもそれは一時。システムとのいたちごっこは永遠に続く。
「あ、たしかにwwww」
だから、論理だけでモノを考えていく場合、
オートマトン化から脱却できないかもしれない。
たとえば哲学だと論理しか使わないから、論理を超えられないような気がするんだ。
(方法は書けるけど、実践は表現できない的な)
そんじゃ、途中経過の論理をすっ飛ばして
「真理」(ゴール)を構築する宗教なら、
あるいは・・・。
でも今度は、別の行き止まりにぶち当たってしまう気がするんだよね。
もし何かしらの教えの中に「真理」があったとして、
現時点から真理までの道は、その間の過程は
ブラックボックスのように論理展開しなくてもいい。
(信じる世界だから)
でも、「真理」というゴールを設定してしまったら、
今度はべつの問題が発生するんだ。
それは言ってしまえば、
形而上学的に「閉鎖系」(Closed System)を作ることなる。
*閉鎖系とは、この世界が閉じていること。
形而上の世界と物理世界はまるで
補完し合うように振る舞っている側面を感じられて、だからどちらか一方でも「閉鎖系」
と定まってしまうと、いづれもう片方も同じように
「閉鎖系」として世界は収束するように見える。
(形而上の世界と物理的世界はまるで対をなすようにもつれ合っている感じがするのだよ)
例えば、
「出口が全くない部屋」という閉鎖系の物理空間があったとしても、
「なせばなる、この世界は可能性で満ちている」
という信念(形而上の概念)があれば、どれだけ出口のない部屋でも、
人間はなんとか出口を探そうとすることを諦めない。
逆に、物理的に閉じた部屋があって、もし神が
「無駄だ、そこは完全に閉鎖されている」と言えば、
あなたはもう、出口を探すことを諦める。
やがてオートマトン化する。
今度は逆に、物理空間が完全に開いていたとする(開放系)
例えば、あなたは、地平線の見える広大な大地に立っている。
がしかし、形而上の神は言った。
「この世界は閉じている。世界の端っこに行くと、
もうそこから先は崖だから、端っこは探求しないこと。そっちへ行って行けない」
このような考えが、実際に歴史において存在していたけれども、
そんな「枠」が設定されてしまえば、
どれだけ広い空間にいようと、人々は、
危ないから世界の端には近づかなくなる。
だから、形而上の世界と物理世界は連動している。
(まるで思考が現実化するかのように)
だから「何かの真理がある」というのは、
それは同時に世界を閉鎖系に導いてしまうように見える。
そして閉鎖系になるということは、すなわち、
アルゴリズム空間になることと同じことになるから、
だからこそ、やはり、オートマトン化から脱却できなくなる。
*世界が閉じる=それはつまり
「宇宙ってこんな感じっす」って
説明できちゃうこと。
*「説明できる部分」を
別の言葉で言い表すとすれば、それは
「定義とか数式とか何かしらの形で導き出せる」
ということ。
「形」で導き出されたものは
「枠」というシステムとして構築可能になる。
そしてその空間には、自動機械(オートマトン)が宿りだす。
となると、残った解決案は・・・
アホ
マジっす。
ガチっす。
ふざけてない
頭パープーになれ、
という意味で「アホになれ」
ということではなくて、
言いたいことは、
オートマトン化からの脱却とは、
論理空間から脱却し、それより上位の概念に移ること
(バカと天才は紙一重ってことなのか!?)
論理の先、それってつまり、
言い換えると、
「感情」とか「感覚」とか
そっちを使うこと。
例えば、
ある1つのシステム(アルゴリズム空間)に対して、
それにそぐわない動きをすること。
システム側から見て、
「なんだこいつ!?プログラム通りに動いてくれねぇ・・・」
わ~wwwwww
みたいな。
でもでも、もし論理的に「アホ」を作り出したとしても、
論理の枠からは脱却できない(アホのフリ)
なぜならそれは
「いたちごっこになるから」
システムの抜け穴を1つ見つけると、
その抜け穴をふさぐ「パッチプログラム」
が後日、適用されていく。
「論理で導き出されるものは論理によってまた追随される」
これは論理思考するもの同士の
絶対に逃れることのできない宿命(競争の概念)
将棋やオセロ的な進め方と同じ。
「敵対的生成ネットワーク」で進化するAIの考え方と同じ。
終わらない論理空間の無限領域へ踏み込むことになる。
(もちろん、ゲームの世界ではちゃんと終わりがある)
だからね「アホになる在り方」とは、
言い換えると「非ロジック」。
これにならないとシステムに対して有効に機能しない。
「非ロジック」(アホ)に無事になれた場合、
システム側としては、そのアホに対して、
どうやってパッチプログラムで
システムの穴をふさいだらよいか、
それを論理思考で導き出せなくなる。
アホ(非ロジック)それは、
もしかしたら、複雑系という世界を動かす物理法則の波に
自分自身を合わせる、
ということと、かなり近い気がする。
ジェダイマスター「流れるように生きるのじゃよ」
(だからこそ深く考えるの辞めたい。最近、本当にそう思う)
好きなことして見失いそうになったとき
好きなことしているとき、
アルゴリズムによって操られている
オートマトンたちがあなたを制止し始める。
(ときにドリームキラーとか呼ばれる状態へと変性する)
「そんなやり方じゃだめだよ」
「今はこういう方法をした方が賢いよ」
「そりゃ効率悪いよ」
「そんな考え方じゃ上手くいかないよ」
「セオリー通りじゃないよ」
「そんなのうまくいきっこないよ」
オートマトンたちは、
システム内のイレギュラー要因
(システム通りに動かないもの)を見つけると、
それを排除するようになっている(自己防衛のため)
エージェント・スミス
「アンダーソン君、おとなしくマトリックスの世界に戻りたまえ」
もし好きなことをしているあなたが、
もしどこかの誰かに
こんな風に言われても、
あなたはその声に屈する必要はないのだ。
だってその声の正体は、
その声を操る上位のシステムを運営している人たちの
思想の波及のようなものだから。
オートマトン化している状態の時、
本人たちに本意は存在しない。
彼らは自動人形のまま、ノードとして、
システム上位の思想を伝道する媒体として機能するだけの存在になる。
上位のシステムが何を差すか、
人それぞれの状況で違うから、
それはわからないけれども、
(それは権威のある人の言葉かもしれないし、
(それは強力なプラットフォームの理念かもしれないし、
(それは伝統的に代々受け継がれてきた常識かもしれないし)
何があなたを縛るか、
人それぞれ状況が違うから
具体的にはわからないけれども、
それでも、その声に従う必要はないってことさね。
そんで、それから、
オートマトン化から脱却する際に、もうこれ以上
あらゆる「閉じた世界」に目を向けなくていいよ、
ってことさね(要らない情報シャットアウト!)
「閉じた世界」をものすごく平たく言うと、
「世界とはこーゆーもんだよ」みたいなことが
すでにわかっちゃってること、
結果が見えちゃってるもの、
真理(ゴール)が既に提示されてしまっているもの。
つまりね、言い換えると、
外にある救済にすがるでない!
大丈夫だ、自分を信じろ!
自分の道を行け!
オンリーワンの道を作ってけ!
(天の声:ふわふわの世を生きるのじゃよ~)
「人生は先がわからないから楽しんだよ」
(byピカソ)
だから、もうそれらは追わないこと。
もう一回説明すると、
「世界が閉じている」=「アルゴリズム化可能」
と置き換える。
だから、ゴールが既に用意されているもの
を求めても、オートマトン化から抜け出せない。
(でもでも、恐怖に陥ると、そーゆーのを求めたくなっちゃうのはすごくわかる)
*ちなみに誤解が無いように言うけれども、
人間は相対的に、ある側面では
オートマン化するし、
ある側面では自由意志を持とうと意識し続ける。
(自分に興味ないこととか真剣に考えないもん。めんどくさいから自動的な反応で済ませちゃうときあるもん)
だから、別にオートマトン化することは
仕方がないし、悪いことじゃないし、
オートマトン化から抜け出せたから偉い人とか、
スゴイとか、
そんなの一切関係ない。
これは好き嫌いの問題(そんだけ)
やっぱり
「好きを追求し続けたいなぁ」
って思っちゃた人だけ、
自分が好きな分野に関して、
オートマトン化しないような道を
模索すればいいわけで。
どれが正しいとか、
誰が正解とか、
間違ってるとか、
優れてるとか、
劣っているとか、
そーゆーのじゃなくて、
自分がどう生きたいか
ここだけを見つめる。
そんで迷ったら、
ここに書いたことを確認するといいよ
いろんな道があるから、
あれこれ迷っちゃうんだけども、
1つ言えることは、前回の記事で書いた通り、
「思考のとらわれ」から脱して、感情や感覚を大切にしたい。
(アホの境地はすばらしい!)
そんで、思考の枠の中だけで進む世界では
オートマトン化から脱却する術が
無さそうに見えるので、そこは注意したいね、
っつーお話(あんまし考えてもしゃーないよ、自分)
ブログのタイトルではさ、
「」
とか書いちゃったけどもさ、
もしかしたらさ、
他にも方法があるかもしれない。
この世界に何一つ完璧なことはない。
ただ、1つ言えることは、
もし自分がオートマトン化から脱却できたときは、
今までいた枠の中の動きが見えるようになる。
そんで「あ、自分、自由意志で動いてたと思ってたけど、
結局はシステムに動かされていただけだったわワロタ」
って気づけたら、それでいいんじゃない?
でも、その上でさらにこう問い詰めてみる。
「さあて、今の自分は、今度はどんな枠の中で動かされているのだろう」
ってね。
きっと完璧はない。
終わりも無い。
道も1つじゃない。
人生は回り続ける
自分だけの道を進んでいきたい
「楽」とか「はしゃぐ」とか「脳みそスパークする」
そーゆー上位概念から外れ、恐怖によって、
また「思考する世界」にとらわれないよう、
自分自身に言い聞かせるつもりで、
ここに書いておこう。
(この記事自体が、かなり思考寄りなわけだけれども
そろそろ、こーゆー時間も少しずつ減らして、リアル世界ではしゃぎたい)
(さあ、ここまで消去法でアレコレ書き綴ってきたんだから、もうアホを選択する以外の道はすべて断たれたも同然じゃ!さあ、残った最後の道を行け、自分よ!)
オラクル(預言者)
「さあ、あなたは、今あるその名前を捨て、
表層を何層にも覆い重なったアバターを捨て、
自分自身の自我の皮をどんどん剥いていく。」
オラクル(預言者)
「そして、最後の最後に、心の一番中心に眠る
最後の自分らしい存在に気づいた」
オラクル(預言者)
「エラーコードAFRM_W_2006よ。」
「これがおぬしの真の姿じゃ」
オラクル(預言者)
「真の姿に気づいたおぬしは、
その在り方をもって、
システムを狂わし、意表を突き、
この巨大なアルゴリズム空間の網目を
抜け出すのだ」
オラクル(預言者)
「だが、忘れてはいけない。
エラーコードAFRM_W_2006よ」
オラクル(預言者)
「その姿すら、やがて幻想であると気づくときがくるであろう」
「そのことを決して忘れてはいけない」
オラクル(預言者)
「さあ、ゆけ。『出アルゴリズム記』のはじまりじゃ!」
あとがき
そしてそれでもやはり、
僕らはオートマトンではない、
という確かなる確証はない、
ということを常に心に秘めておきたいものです。
オートマトンではない、と強く信じるほど、
また自我にとらわれ始めるのです。
自分自身を観察し続け、
偉大な自然が見せつける事実を
謙虚に受け入れていきたいです。
そのうえでやはり、
少しでも「人間らしくありたい!」
そう渇望してやまない愚かさを
拭い去ることができないのです。
そして、そんな自分を許せるようになっていきたいのです。