プロ野球界では、東京ヤクルトスワローズとオリックスバファローズが日本シリーズで熱戦を繰り広げられ、オリックスが逆転で日本一に輝きました。
この時期になると現役引退だったり、来シーズンはチームの構想外ということで戦力外になる選手も出てきて、寂しい時期になりますね。そんな中、日本のプロ野球やアメリカ・メジャーリーグで22年間活躍した福留孝介選手も今シーズン限りでの引退を表明しました。
今回は、その福留孝介選手が残してきた軌跡をまとめていきます。
福留孝介が残した功績まとめ
中学校時代
小学校3年生でソフトボールを始め、全国大会に出場した福留孝介選手。中学校からは硬式ボールを使うボーイズリーグ「鹿屋ビッグべアーズ」に所属し、全国制覇を成し遂げます。
高校時代(PL学園)
「小さい体でも大柄な選手の中でも目立つことができる」と幼少期から立浪和義さん(現中日ドラゴンズ監督)に憧れを抱き、高校も立浪さんの母校であるPL学園に進学します。
1年生時には夏から5番打者として甲子園に出場、秋からは4番打者としてチームを牽引しました。
3年生の夏は、大阪大会で7本塁打を記録。甲子園でも打率.467(15打数7安打)・7打点・2本塁打と打ちまくり、その年のドラフト会議では高校生としては史上最多の7球団からドラフト1位指名を受けました。
社会人時代(日本生命)
ドラフト前から「中日か巨人以外だったら大学もしくは社会人へ進む」と明言していたこともあり、ドラフトで近鉄が入団交渉権を獲得したため、社会人の日本生命へ進みました。
社会人野球でも活躍をし、1年目で若獅子賞を受賞、2年目にはアトランタ五輪に日本代表として出場し、銅メダルに貢献しました。
社会人通算公式戦93試合出場・打率.383・33本塁打・96打点・25盗塁の大活躍をみせ、ドラフトが解禁となった3年目のオフに逆指名で中日へ入団しました。
中日ドラゴンズ時代
入団1年目の1999年から開幕スタメンを勝ち取り、監督推薦でオールスターゲームに選出される活躍を見せ、最終的には一軍公式戦132試合に出場、打率.284、16本塁打、52打点という成績で、チームのリーグ優勝に貢献しました。
2001年6月26日、札幌ドームのプロ野球のこけら落としとなった巨人戦では先頭打者初球本塁打を記録し、「背番号1の福留がその球場の1試合目の1回表に1番打者として1球目を第1号本塁打」と、「1」尽くめの歴史的本塁打にもなりました。ちなみに、札幌ドームでは、その歴史的初本塁打のボールの落下点となった右中間スタンドの座席(111通路20列147番)の床に本人の名前を記した記念プレートが設置されています。
2002年は福留選手の飛躍の年となり、元巨人の松井秀喜さんの三冠王を阻止する首位打者を獲得、安打数も球団最多記録となる186安打を記録しました。年俸も8,000万円増の1億2,200万円と大台に到達しました。25歳での1億円到達は立浪和義監督に並んで球団最速の記録です。翌年には年俸が2億円を突破し、球団最年少記録を樹立しました。
2004年にはアテネ五輪の日本代表に選出され、銅メダル獲得に貢献をしますが、シーズンでは打撃不振に苦しみました。
2006年に行われたWBCではチームメイトの谷繁元信さんと出場。初代王者に輝いたことから愛知県スポーツ功労者として表彰も受けました。
2007年のシーズンオフにFA宣言、MLBへ移籍することとなりましたが、プロ入り後9年間でMVP1回・首位打者2回・ベストナイン3回・ゴールドグラブ4回のタイトルを獲得しました。
大リーグ時代
シカゴ・カブスと4年総額4,800万ドル(約54億7,200万円)の超大型契約で福留孝介選手のMLB挑戦が決まりました。この契約はメジャーリーグでプレーしたことがない日本人選手の年俸としては史上最高額でした。
1年目から活躍、特に前半戦はカブスの中心として走攻守に活躍し、ファン投票でオールスターに選出されました。
その後5年にわたり挑戦を続け、2012年のシーズンオフ、NPBの阪神へ移籍しました。
プロ野球復帰後(阪神タイガース・中日ドラゴンス)
2012年にNPBの阪神タイガースに復帰すると、球団最年長でキャプテンに就任するなどチームを牽引しました。
2021年シーズンからは古巣の中日に復帰し、それまでの経験や技術を若手選手に伝える「コーチ」のような役割も担っていました。そして、2022年9月7日に引退表明をしました。
まとめ
プロ野球選手として、日本代表でも多くの結果を残し、日本人史上最高額での大リーグ移籍も果たした福留孝介選手。いい経験も悔しい経験もしてきた福留選手なので、今後コーチとなって福留選手を超える選手を育成していってもらいたいですね!