毎日ブログを書くことがチョロくなる魔法3

 

 

前回の続きじゃ

 

前回の記事はこちら↓

「ブログを毎日書くことがチョロくなる魔法2」

 

 

 

ワシのブログで書くことは、

もしかしたら、一般的な

ブログノウハウ系とかビジネス系とかの

本で書かれているようなことと

たぶん、全然考え方が違う気がする・・・・

 

 

 

がしかし、

自分で思ったからそれを書くわ。

思っちゃったからね、書いちゃいますわ。

 

 

 

 

(あ、ちなみに、一般的にささやかれている

ノウハウ的な内容は、全く否定してないです。

むしろ、このブログにもたくさん取り入れてるし。

がしかし、「自分なりの視点」というのもあるので、

この記事ではそれを書こう思う)

 

 

 

 

 

最初の記事で一番言いたかったのは、

マインド設定

 

 

「ブログはチョロいぞ」と。

「私はチョロくできるぞ」と。

 

そんな感じの設定。

 

 

 

そんで、続編の記事で書いたのは、

「自分の内側をみつめること」

「リラックス、ひらめき、直観」

ってこと。

 

 

 

そんで3つ目の記事(この記事)では、

 

「世界をありのままに観察する」

ということについて書きたい思う。

 

 

 

ぶっちゃけ、本は好きじゃ。

おもしろいし、

いろいろな人のいろいろな見解を学べるし、

だから、いろいろな本を読んできた。

 

 

 

でもね、最近は、

ぜーんぜん読んでない。

ごくたまに読むくらい。

 

 

 

本とか動画とか音声教材とか、

講演会とか、スピーチとか、

テレビとか、新聞とか、

ニュースとか、論文とか、

インタビューとか、

雑誌とか、ラジオとか、

 

 

 

 

情報的なものをインプットする方法は

いろいろある。

 

 

 

 

 

だけどね、

それらから得られる考えとか答えって、

すべて1つのところから

発生している。

 

 

 

 

 

それは、

自然。

 

 

 

 

自然とは

ありのままのこと。

 

 

 

 

海とか山とか、

緑とか花とか、

動物とか、

そういうのも自然。

 

 

 

でも、自然って、

もっともっと大きな範囲のこと。

 

 

 

 

社会活動から、

星の動き、

物理法則から、

心の動きすべてに至るまで、

すべてが自然現象。

 

 

 

 

自然を正確に観察するとは、

「ありのままをとらえる」

ということ。

 

 

 

 

 

このブログ記事では

「ありのまま」について

たくさんのアプローチで

書いてきたけれども、

もちろん、

100%正確にありのままをとらえる

ということはできないかもしれない。

それはたとえ、科学者であったとしても。

(どんだけがんばっても、ある程度の誤差とかがあるのだ)

 

 

 

 

 

 

誰かが書いた情報というのは、

必ずどこかから発生しているものなのだ。

それについては、昔書いた記事で

説明したのね↓

「情報収集を効率よく行いビジネスを成功させるには?」

 

 

 

昔書いた記事(上のリンク)では、

一番新しい情報を「一次情報」と説明したのだけれど、

その記事では、情報の「性質」や「流れ方」

について書いたのだ。

 

 

 

情報がどうやって流れ、

どうやって人々に

波及していくか。

などなど。

 

 

 

だけど、

「情報の発生源」については、

まだ書いたことがなかった。

 

 

 

 

情報というのは、

必ずどこかから発生する。

どこかから生まれる。

 

 

 

 

だから、本でも、

ネットの情報でも、

テレビでも、

すべてのあらゆる情報は、

水で例えると、「水源」

みたいなところがあって、

かならず発生する「源」(みなもと)

が存在するのだ。

 

 

 

それこそが、

「自然」だ。

 

 

 

 

自然を観察すれば、

あらゆることが発見できる。

 

 

 

 

「ブログを書くとき、

外から情報を取り入れるという視点だけでなく、

自分の内側を見つめると、

いろいろ書けるよ」

 

 

ということを2番目の記事

書いたわけだけれど、

3番目の記事(この記事)でいいたいのは、

 

 

 

 

「すべての情報が自然から発生している」

 

 

 

ということと、

 

 

「情報源である自然をできるかぎり、

ありのままに観察すると『気づき』を得られる

 

 

 

ということを

書きたいわけなのだ、

ようするに。

 

 

 

 

 

「え?そんなわけあるかい。」

「たとえば、〇〇社の12月の決算の数字を、

自然を観察することで、

いったいどうやって、見つけることが

できるというんだ!?」

 

 

 

それはごもっとも。

そこまで細かい情報は、

今の一般的な人間の知能レベルでは

たぶん観察しきれない気がする。

(でも企業コンサルタントとか、

ビジネスのプロはある程度、推理できちゃうんじゃないかな)

 

 

 

 

そんでその具体的な情報(抽象度の低い情報)

というのは、

もっと包括的な世界(抽象度の高い情報)

に触れたときに、あなたにとって、

問題とならなくなるか、視野に入らなくなる場合がある。

 

 

 

そんで、それについては、長くなるし、

今回言いたいこととズレるから、

この記事では、説明は省くけれど、

今回の記事で言いたいことは、

 

 

 

 

あまりに具体的すぎる情報はさておき、

自然をありのままに観察することで、

得られる情報というのは、

ものすごいたくさんあるよ!

っていうこと。

 

 

 

 

もう一度言うけれど、

「自然」というのは、山や川だけじゃなくて、

それらもひっくるめて、

この宇宙全体に起こる全事象のことね。

 

 

 

 

で、前置きが長くなったけれど、

外から何かをインプットする

という方法もあるけれど、

自分の目で観察

(自分の認識で世界を見る)

をやっていくと、

いろいろな気づきが得られるはず。

 

 

 

もちろん「100%ありのままに見る」

というのは、悟りを開いた人でない限り、

無理なことなんだと思うけれど、

人は、自分の視点で、自分の目で、耳で、

五感で、すべてを自然から感じ取ることができる。

 

 

 

そして自分の頭で感じたもの、

考えたものが、

「自分だけの一次情報」

みたいな感じ。

 

 

 

そんで、それは、

間違っててもいいし、

正確じゃなくてもいいし、

矛盾しててもいい。

 

 

 

この記事ではそういうことを

言いたいわけではなく、

とにかく、「世界を観察する」

という行為から何かが得られるよ!

ということを言いたいのだ。

 

 

 

 

そんでそれを得たら、

ただブログに書くのだ。

 

 

 

ただ、そんだけなのだ。

 

 

 

 

同じ現象・違う視点

 

 

人がどうやって、情報をアウトプットするかは、

その人がどうやって、

「世界を観察するか」で変わってくるのだ。

 

 

その人がアウトプットする情報の質も量も、

世界を観察する質と量に比例し、

アウトプットする情報の性質は、

観察者の主観によって変化する。

 

 

たとえば、

次の例。

ありのままの世界を

「リビング・テーブル・プリン」

という設定にして考えてみる。

 

 

 

<ありのままの世界>

「リビングには誰もいない」

「テーブルの上にプリンがある」

 

 

 

「ありのままの世界」を

Aさんが観察した。

 

 

<Aさんの世界>

「あ、プリンだ!」

「うまそう!」

「誰もいないや!」

「お兄ちゃんが来ないうちに、食べてしまおう!」

 

 

 

<Bさんの世界>

「あれ、誰もいないのか?」

「あれ、プリンがある。」

「誰か買ってきたのかな?」

「ということは、家の中にまだ誰かいるのかな?」

 

 

 

<Cさんの世界>

家に帰ってリビングに入る。

「ただいまー!」

「あ¨あ¨あ¨あ¨あ¨あ¨あ¨あ¨」

「おしっこ漏れそうだあああああ」

大至急、トイレに向かう。

 

 

 

 

Aさんは、

お兄さんを意識しているし、

きっと今までにプリンとか何か、

食べ物で取り合いの競争があったのかもしれない。

Aさんはもしかしたら、人間関係について、

ブログなり、文章なりで自分の世界を表現するかもしれない。

 

 

 

Bさんは、きっと

論理的な人なのかもしれない。

推理、推測が好きなのかもしれない。

すると、そういう感じの世界観を

アプトプットするかもしれない。

 

 

 

 

Cさんは、

おしっこが漏れそうで「今ここにあらず」状態。

あの状態で、世界を観察する余裕はない。

当然、プリンどころではない。

ちなみに、ここでいう世界というのは、

部屋とテーブルとプリンのこと。

しかし彼にとって世界とは

「おしっこ」100%でできているのだ。

彼の意識は「トイレに行くこと」

これ1点に集約されている。

 

 

 

「ありのままの世界」(リビング・テーブル・プリン)

は観察者(Aさん、Bさん、Cさん)によって

3つの世界に分岐する。

 

 

そんで、ありのままの世界を表現しようとすると、

観察する人が、どれだけ、精緻に観察できたかによって、

アウトプットされる質も量も変わり、

観察者が、自分で観察した世界に対して、

どのような感想を持つかによって、

自分で表現した世界の性質が変わってくるのだ。

 

 

自然観察者はだれ?

 

 

数学者とか、研究家とか。発明家。

あるいは、

クリエイター的な人。

たとえば、詩人とか、ダンサーとか、

画家とか、小説家とか、ポエム書く人とか、

まあジャンルは何でもいいのだけれど、

クリエイターは自然観察が得意な人が多いと思う。

 

 

あるいは、研究家やクリエイターでなくても、

日常の生活の中で、自然観察をして、

自分で自分だけの発見をしている人たちもたくさんいる。

 

 

 

たとえば、日常の家事の延長線上に、

健康を取り入れたくて、スリッパのかかとを切って、

つま先だけのスリッパを発明した主婦とかいたね。

そういうアイデアとかって自然からの観察で

アイデアが下りてきている。

 

 

 

自然観察ではなく、

外部から何かを取り入れる人。

そういう人は、

 

 

たくさん本を読んで、

たくさん勉強して、

たくさん知識を蓄えて、

そんで、蓄えたことをもとに、

たくさんいいことを書いている人がいるけれど、

それはすべてアウトプットから得た情報。

 

 

 

それはクリエイターというより、

アーリーアダプターとか、

フォロワーとか、

そういう立ち位置の人。

(専門用語わからない人は、

こっちのリンクの記事を読んでね)

 

 

 

それとは逆に、自然観察者は、

自然を観察し、自分で表現する。

 

 

 

クリエイタータイプの人は、

自然を観察した後、

自分なりの表現に置き換えることも得意なのだ。

 

 

 

たとえば、偉大な小説家は、

日常の一見するとツマラナイ日常を

おもしろく、おかしく、

あるいは、

悲しく、情緒的に、

表現することができる。

 

 

 

「リビングに入ると、

そこには腰の高さほどの4つ足の木のテーブルがある。

そのテーブルのほぼ中央に、旨そうな

プッチンプリンが置かれている。」

「まるで、手に取って食べてください、

と言わんばかりに、堂々と置かれている・・・」

 

 

 

みたいな。

知らんけど。

(小説とか書いたことないから知らんけど)

 

 

 

優秀な詩人は、自然をありのままに

観察する能力が長けていて、

なおかつ、それを自分なりに表現するのことに

長けているのかもしれない。

 

 

そうであるなら、

彼はあまり、本なんか読まないかもしれない。

 

 

 

そのかわり、彼は、彼が見た日常を、

細かく観察し、

それを彼の感じたとおりに表現しただけに

すぎないのかもしれない。

 

 

何かを外から得るのではなく、

自分の五感で認識できる範囲の今ここにある現実を観察する

 

 

ま、長くなったけど、

この記事で言いたいことっていうのは、

上の太字の部分の考えを持つだけでも

ブログネタなんて、いろいろ書けるんじゃん?

っていうお話。

 

 

 

「え、じゃ、どうやって

観察力を養っていけばいいの?」

 

 

 

そりゃ、センスを高めていけばいいって話。

 

 

ってセンス系の記事は、

もうたくさんの記事にして書いたからね、

気になったら、それらの記事も読んでみてちょ。

 

 

 

 

そんじゃ。

 

 

 

 

 

 

 

 

1 件のコメント

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