不幸の始まりはどこから来てどこへいくのだろう

 

幸せについて意識しだすと、

不幸に敏感になってくる。

 

 

不幸そうな人は避けたいし、

不幸そうな場所は行きたくないし、

不幸そうな出来事には遭遇したくない。

 

 

 

 

ヒヨコ

「お家でNetfrilx見たい。寝たい。ポテイト食いたい。」

 

 

 

不幸の始まりはどこだろう。

 

 

不幸はどこからきてどうやって

人々の心に浸透していくのだろう。

 

 

 

 

枠を意識し始めるとき

 

 

枠を意識し始めるとき、

世界に分断が起こる。

 

 

 

枠とは、

「もともと1つだったものを2つ以上に分割するもの」

 

 

 

そもそも枠を付けるには理由があった。

 

 

 

家畜を柵に入れておかなければ、

勝手にどこかへ行って逃げてしまう。

戻ってこなくなってしまう。

 

 

 

自然のあらゆる事象を「言葉」に押し込めなければ、

僕らは、それが何であるかを認識することも出来ないし、

自分以外の人とそれを同じように共有することも出来ない。

だから意思疎通も難しいくなってしまう。

 

 

 

個人を集団と切り分けないと、

ちゃんとプライベートな空間を設けないと、

自分自身と家族を守れない。

プライベートな時間がないと、

自分の精神が落ち着ける場所が無くなる。

個人と公共を分けないと、

人間らしい生活ができなくなってしまう。

 

 

 

神が最初にあって、神が自然を作ったのだ。

自然があってそこから神が生まれたのだ。

 

 

 

枠を付ければ、

「嫌なモノ」が自分の中に入ってこなくなるし、

「良いもの」を自分の外に逃げてしまうのを防ぐことができる。

 

 

 

 

枠は幻想なのだろうか

 

 

 

とゆー思い込みのまま、

生きているのだろうか。

 

 

 

それとも本当にやっぱり

「枠」は必要なのだろうか。

 

 

 

 

枠自体が本当は幻想なのだろうか?

 

 

 

 

 

不幸の始まり

 

 

 

不幸の始まりはどこからきたのだろう。

 

 

それは何かに対して枠を付けたときに、

自分自身の心の中にも同時に枠がついたのだ。

 

 

 

自分以外の外の世界が枠によって分断されたとき、

自分自身の心にも同じような作用が生まれた。

 

 

 

 

枠の中は良いものがあり、

枠の外は悪いもの。

 

 

枠の中は優れていて、

枠の外は劣っている。

 

 

 

枠の中はすごくて、

枠の外はすごくない。

 

 

 

枠の中は安心で、

枠の外は恐怖。

 

 

 

このとき、心にも

分断が起こるのだ。

 

 

 

 

第三の道

 

 

 

「じゃ、枠を取っ払おう。」

 

 

はシンプルな解。

 

 

 

もっとも勇気があることでもあり、

もっとも愚かでもある(ように思える)

 

 

 

 

でも逆に、あらゆるものを計測し、

枠をつけ、管理しようとする行為は、

全体(システム的に動いているなにか)を不活性にし、

最終的には死へと追いやってしまう。

 

 

 

 

枠を消すことは、

枠そのものを消すこと、

 

 

 

というよりかは、

自分の意識の中でそれを

消してしまうこと。

 

 

 

その方が調和がとれている。

その方が手っ取り早い。

その方が平和的。

その方が一瞬で訪れる。

 

 

 

 

そう幸福は一瞬で訪れる。

 

 

 

 

第三の道が差し示す、

この奇跡の場所を

気づいていくこと。

 

 

 

 

さもなければ、この奇跡の場所は、

まるで細い綱渡りのように

細くなり、見えなくなり、

そして消える。

 

 

 

この奇跡の場所を見出すのは、

在り方だけなのだ。

 

 

 

いろいろな枠にとらわれている心を開放していきたいな

 

 

 

 

 

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