真我によって、
自然に広り成長するもの、
他力が沸き、みんなにワッショイされ、
見えない力の風が吹くのであれば、
それは神様に祝福されている。
そこには豊かさが生まれ、
希望の光で世界が輝きだす。
それが自我と真我が
重なり合っているということ。
でも人間はみな、
完璧じゃない。
だから、自我が少しでも
暴走してしまうところがある。
自我が真我との重なりを忘れ、
少しだけズレちゃうんだ。
そしてズレたまま自我によって、
何かしらの意図を解き放ち、
この世界において、何かの行動するのであれば、
そこには「神的なもの以外の何か」が生まれる。
人工的な何かが生まれる。
それは幻想である。
幻想の光と影を同じ量だけ生み出す。
その光と影は2つでセット。
相殺すると0に戻る。
この影の部分に焦点を当ててみれば、
そこにはこの世界のあらゆる「問題」
となってその影響力を世界全体にはびこらせてしまう。
この世界が、
「質量保存の法則のように出口が無く完全に閉ざされた試験管のような状態」
なのかどうかは誰にも分らない。
でも、人間が考え出した
『「枠」という「人工的な世界」では、
試験管のように出口は閉ざされている』
資源は限られ、枠によって人々は分断され、
その枠の中で「限られた資源(富)の移動」という現象が起こる。
(電池やパソコン、あらゆる仕組みと同じさ。いつか必ず終わりが来る)
その1つの例が、資本主義とかね。
システムという感じで人工的に枠を設けて、
もともと1つだった自然現象を2つに分断してしまうと、
そこに落差ができる。
その落差にエネルギーが生まれ、それを原動力にして、
システムは動くのだけれども、
その人工的なシステムというのは必ず「寿命」を迎える。
(エントロピー最大を迎えると、システムは持続可能できなくなり、終わりを迎える)
現代の資本主義というシステム(枠)では、
自我だけを使って動かしていくために、
枠で囲って、物事を2つに分断して、
片方だけ(光の方だけ)を選ぶのは
「自我」のズレによる行為なのだ。
そのズレの部分は、自我によって
システムを動かし続ければ続けるほど、
やがて膨大に膨れ上がっていく。
自我が真我とズレている部分からどんどん生まれてくる、影の部分。
僕らはきっちりと、後日、その影が生み出す
あらゆる問題を「清算」しないといけなくなる。
だからそれを理解している人や
あるいは理解してなくても心で何かその違和感を
直観で感じ取れる人たちにとってみれば、
「自我の暴走」に対して、心の痛みを感じるし、
たとえそれが自分以外の関係性に対しても、同じように、その痛みを共鳴で感じてしまうんだ。(横の関係性)
そしてまた、時間的な繋がりでも同じ作用が働いていて、
もしこの世界を試験管のように人工的に閉ざしてしまうと、
枠の中の世界で起こることはすべて必然世界(シナリオ通りの世界)となる。
だから今、行ったのある行為に対して、
未来のいつかの時点で、自分に対して、
不利益をもらうシナリオが確定している場合、
それを無視できる人なんていない。
そーゆー人たちは、今と未来が同時に見えているんだ。
(縦の関係性)
だから、
それを前もって非難する人がいても、
それは当然の行為のように思える。
(非難する人とされる人は、セットの関係。必然の関係)
そしてまた、非難する人は、
非難する理由を生まれたときからほぼ自動的に
与えられている。
生れたときから、
親から、学校の先生から、上司から、
〇〇するべき、○○であるべき、
こうしなさい、コレはダメ、
それはおかしい、そんなんじゃ生きていけない。
「人工的に作られた枠」
の中で生きる僕たちは、この枠を守ることを
何よりも最優先しているので、
枠に沿わない、枠に合わない何かしらの現象を見ると、
まるで警察官にでもなったようにそれを咎め始め、
社会全体はそういう空気感で包まれる。
その空気感の中で生まれてくる僕たちは、
生れながらに「人工的なつくられた枠」
の洗礼を受ける。
それを指摘する者は、枠を守る者を非難するし、
それを指摘する者を、枠を守る者も非難している。
(これは2つで1つのセットの関係性)
だから世界は「善悪」という
2つに分かれていく。
(あくまで真我から見て「悪」なのだ。
だがしかし逆に、自我から見るとそれは「善」なのだ)
☆たぶんね、この類のお話は、現代の資本主義が始まるよりも前から、
何千年も太古より、星の数ほど繰り返されていてるし、
きっとこの先の未来でも、発展することも、解決することも無く、交わることのないまま平行線上に永遠に広がるだけなのかもね・・・
そんでもって、話を戻すと、
自我が真我と重なり合っているものだけが真実で、
少しでもズレたものであれば、その部分だけはニセモノとなる。
(あくまでその部分だけ。ズレのない完璧な人間はいない。)
だからこそ、
これを理解しているのであれば、
人は「ズレを解消させていく」という方へ向かうことが
人らしい生き方となるのだけれども、
それを「できない人」もいる。
ワタシよりできない人がいる。
あなたよりできない人もいる。
それは仕方がないこと。
僕だって同じさ。
僕はAさんよりズレが少ないだけであって、
でも僕はきっとBさんから見たらズレまくりな人なのだ。
この事実があるのだから、誰かを避難をすることの意味の無さが浮き彫りになってくる。
だからこそ!
そういう人を非難しないし、
ただ「そーゆー人もいるんだ」
とありのままを見るのみ。
でもやがて世代を超えていくほどに、
人間の価値観というのは
「真我寄り」の方へ成長していく。
それはただ、
見つめていくしかない。
見守るしかない。
今は今のままの現状を
ただ見つめるだけ。
そこに避難もジャッジもせず、
善悪にも分けず、
ただありのままを見る。
観察する。
その影を作り出す部分に対して、
関心を寄せる。
そして成仏させていく。
僕より更に更に、
次の未来の世代になればなるほど、
やがてこの「ズレ」に対する「精度」
というのが時代ごとに上がっていく。
「真我と自我のズレ」
まるで銃で的を狙うように、
このズレの精度は時代ごとに改善されていく。
そしておそらく、
真我と自我の「完璧な一致」
は未来永劫、起こらないと思う。
だから、100年後の人達から見れば、
僕らは「精神的に未成熟である」
とみられるかもしれない。
でも、200年後の世界の人達から見れば、
100年後の世界の人達もまた
「精神的に未成熟である」
と見られているのかもしれない。
そうやって僕らはずーっと、
相対間の中で生きている
この相対間というものから
僕らは抜け出せない。
だから誰も責めないし、
ジャッジもしない。
だから、
「ありのまま」
なのだ
ただ、見る。
ただ観察し、
対象に対して愛を注げるように慣れれば、
それがゴールだ。
もちろん、無理にやらなくてもいいし、
やれる人はやればいいし、
やりたくない人はやらなくていいし。
みんな自由だ
僕はといえば、
この「ズレ」の精度を高めていく、
という生き方を選ぶ。
他人は関係ない。
これは僕の世界のお話なのだ。
僕は僕だけの世界観をたった一人でも作っていくし、
僕と同じ価値観の人たちがいれば、共に生きていく。
それだけのことさ。
そんじゃ