ゆらいで生きる

 

 

こーゆー生き方はサイコーだなぁ、

って個人的には思うことがある

 

 

 

 

それは、

「ゆらぎのある生き方」

 

 

 

ゆらぎとはなんぞや?

というと、、、

いろいろな定義があると思うけど、

 

 

 

 

ふわふわとして一定していないとか、

状態が確定していないとか、

動的あるとか、

 

 

 

 

柳のようにゆらゆらしてたり、

猫のようにふにゃふにゃしてたり、

雲のようにふわふわしているのだと思う

 

 

 

 

そんで、ワタシ的に一番好きな表現があるとすれば、

ゆらぎとは、

 

 

 

 

規則性の中の不規則性であり、

不規則性の中の規則性であること

 

 

 

それはつまり、

 

 

 

自由の中の不自由とか、

不自由の中の自由とか、

 

 

秩序の中の無秩序とか、

無秩序の中の秩序とか、

 

 

 

調和の中の不調和とか

不調和の中の調和とか

 

 

 

そーゆー感じ。

 

 

 

 

まったくの無秩序状態は

完全なる想定不可能な世界。

ブラウン運動のような状態。

 

 

 

無秩序。

無頓着。

エントロピー最大化。

 

 

 

 

でもそうではなくて、

「ゆらぎ」とは、

完全なる手放し放任の状態ではなく、

何かしらの「秩序」や「規則性」やら

「意図」やら「意味」やらが、

それとは正反対の状態の中に、あるいは外側に、

同時に存在していること。

 

 

 

 

 

普段はふにゃふにゃしてて、

ぐぅたらしてて、

自由奔放で予想不可能な行動ばかりなんだけど、

 

 

 

 

危険を察知したら、

とっさに身を隠したり、

逃げれたりする猫的な。

 

 

 

そんな「ゆらぎ」の中に、

あらゆるすべての神秘が詰め込まれている

 

 

 

 

 

ゆらぎ生命

ゆらぎは美しさ

ゆらぎは黄金比

ゆらぎは1/ fノイズ

ゆらぎはフラクタル

ゆらぎは宇宙

 

 

 

 

 

ゆらいでいる人は美しい。

なんか知らんけど、美しさが垣間見える。

なんか知らんけど、そこにその人らしさの「魅力」が眠っている。

 

 

 

 

逆にゆらいでいない人は、

固執している。

在る部分では美しさが欠如しているように見える。

 

 

 

 

それは思考かもしれないし、

行動かもしれないし、

言動かもしれないし、

あるいはいろいろな部分に現れたりする。

 

 

 

 

なかなか言語化が難しいのだけれども、

この違いはたしかにある。

 

 

 

 

ゆらぐ生き方とはバランスの良さ

 

 

ゆらぐ生き方とは、

バランスの取れた状態。

 

 

 

思考も偏り過ぎると

理想論的になり過ぎたり、

非現実的になり過ぎたり、

あるいは逆に現実的になり過ぎたり、

合理主義的になりすぎてしまう。

 

 

 

すると、美しさが消える。

原理主義になりすぎると、

頭がカチカチになっていく。

 

 

 

思考が偏れば、

言動、行動、表情、結果などなど、

それらにだんだんと表れてしまう。

 

 

 

 

がしかし、ゆらぐとき、

美しさ、しなやかさ、滑らかさが

また戻ってくる。

 

 

 

(ここで言っている美しさとは、

ただ単に見た目の美しさじゃないよ。

美しさとはある種の「調和・秩序」の存在でもあるのだよ)

 

 

 

 

美しさ、しなやかさ、なめらかさが戻ってきたとき、

人間らしさ、魅力、その人っぽさがまた生まれる。

 

 

 

 

もっとゆらいでいけば、

自分以外の他者との間の関係性や

自然との関係性においても、

調和をとりながら生きていける

 

 

 

 

ゆらぐこととゆらがないこと

 

 

 

何かを固定してしまうと、

ある1つのゆらぎが消えてしまう。

 

 

 

何かを設定してしまうと、

また別のある1つのゆらぎが消えてしまう。

 

 

 

とはいえ、100%全部を無為自然のままに

過ごせる人間なんていないのかもしれない。

 

 

 

もし仮のそれができたとして、

それはもはや「人間」とは呼べないのかもしれない

(自然に溶け込んだ人は自然そのものであり動物のよう)

 

 

 

また逆に100%信念だけで

生き続ける人間もいないのかもしれない。

それが行き着くと他者を排除する原理主義に突き進んでしまう。

 

 

 

 

だから「固定する」と「固定しない」の間にも

黄金比的なバランスを取り入れ、

自分の中で心地よいポイントを、

自由に決めていけばいいのだ。

 

 

 

 

例えば、自分の人生を

「笑い」とか「楽」に設定してもいいし、

それ以外の状態の間にも「ゆらぎ」を許していけばいい。

 

 

 

*だってさ、例えば、人生の大半を

笑って過ごせたら楽しいけどさ、極端な話、

24時間笑いしかできなかったら地獄じゃね?

 

 

 

日中動けるから、夜眠れる。

夜たくさん眠れるから、日中また動ける。

 

 

 

食べるからお腹が一杯になる。

お腹が一杯になるから食べるのを辞める。

食べるのを辞めるからまたお腹が空く。

お腹が空くからまた食べられる。

 

 

 

 

「ゆらぐ」とは思考のレベルにおいても、

物質のレベルにおいても、

緩衝材的な役割を果たす。

 

 

 

 

その結果がある1つの「流れ」

言い換えると「パターン」を形成し、

秩序であり調和が生まれる。

そこに「生命らしさ」が発生する。

 

エントロピーっぽい何かが生まれる。

 

 

 

*この「らしさ」とか「ぽさ」がいいんだよね

この部分を人類は完全に定義することすらできない

ということ自体がすばらしいのだね。

(*なぜなら、これを見出した瞬間にこの世から「ゆらぎ」が消滅するから)

 

 

 

 

 

そして「固定する」と「固定しない」のラインも

曖昧にして、ぼやかしていけば、

それ自体もふわふわの動的な状態となり、

それ自体も「時の流れ」に合わせて、

動的にゆらいでいくことができる。

 

 

 

 

「ゆらぐこと」と「ゆらがないこと」

の2つ状態においても「ゆらぎ」を取り入れる。

 

 

 

そしたら抽象度が1つ高まり、

もっと大きなゆらぎの中へ。

 

 

 

 

 

今日のブログは何を言いたいのかっていうと、

 

 

 

 

ここに意識を向けていると、

あらゆるタイプの不安とか恐怖が、

かなり無くなるし、

 

 

 

自分の中でバランスが保たれ、

その結果、何か「心地よさ」とか

自分以外の世界との「調和してる感」が取れてるなあ~

 

 

 

っていうことを

感じられたからなの。

 

 

 

 

そんでもって、そのおかげで、

より生産的なことをし続けたり、

自分の畑を耕すことに

意識を健全に向けられたり、

 

 

 

 

なんというかこう、

「健全な感じの生き方」ぽさが

持ててる気がしたからなの

(あくまで自分の場合は。)

 

 

 

 

ゆらぎのことは、ずーっと前から

「ただの知識」として、

持っていただけなのだけども、

(大学時代はゆらぎと音楽の関係について調べるのがすごい好きだった)

 

 

 

 

なんか最近、改めて、

ゆらぎっていいなぁ~

って深く落とし込めた感じがするの

 

 

 

 

 

 

「ゆらぐ生き方」

ってめっちゃイイね!

 

 

 

 

もっともっと意識してみよーっと。

 

 

 

 

そんじゃ