内側と外側の世界を交互に磨いていく

 

 

 

奥行の世界を極めていくこと。

それはもともと持っている自分自身の魅力に気づくこと。

あるいは、今まで否定していた自分のコンプレックスを

肯定し磨いていくこと。

 

 

 

そしてさらには真我と繋がって、

楽しさ、無我夢中、フロー、没頭、熱中に入り、

自分という存在を忘れること。

 

 

 

それこそが奥行の世界

内側の世界の力。

「自分と神が繋がること」

 

 

 

 

対して、外側の力について。

それはアルゴリズムの世界の法則。

大人の世界。

 

 

 

それは「自分以外の人間との何かしらの共通項」

を見つけていく作業。

 

 

 

世間に通じる法則。

自分以外の他者に伝わるプロトコル(コミュニケーションの手段)

多数に影響を与えること、何かを伝えること。

「自分と他者との繋がり」

 

 

 

 

内側の世界

 

 

 

内側の世界を磨くこと。

たとえば、

自分だけの演奏スタイル。

自分の言い回し。

自分らしい絵の表現。

自分独自の作曲法。

自分らしい話し方。

自分らしい伝え方。

自分の踊りのスタイル。

自分の売り方。

自分のポリシー。

自分ルール。

自分の世界観。

 

 

 

 

それは自分の頭で考えるというよりは、

もともと、何もしなくても、

自分という器を通して、

ごく自然に「そうなってしまう」こと。

 

 

 

 

神様が自分という器を通して、

神の息吹となる「聖霊」を解き放ち、それが

ワタシという器を通して、それがごく自然に形作られる。

それこそが自分らしさ

 

 

 

 

器は人それぞれ、形が違う。

だからそれを否定しない。

それを受け入れ、それを肯定する。

 

 

 

 

なれない誰かにあこがれるより、

出来ない何かを成し遂げようと頑張るより、

猫に生れたのにイヌになろうと頑張るより、

 

 

 

 

もともと生まれ持って与えられた

「自分の器の形」を知りること。

そしてそれを肯定すること。

 

 

 

 

するとその器に神が豊かさを与えてくれる。

その器に与えられた何かしらは、

自分らしさという形で表れてくる。

 

 

 

 

もともと与えられた器を通して行われるものは、

ごく自然体で楽にできること。

自分にとって自然なこと。

「これが私だ!」って納得感が得られること。

他の誰かになろうと頑張らなくても、

なれない誰かにあこがれなくても、

あなた自身のまま、自然で容易いこと。

 

 

 

 

 

外側の世界

 

 

これに対して、

外側の世界は

「自分以外の他者の世界」となる。

 

 

 

世間一般

世界共通

常識

当たり前

方程式

法則

ノウハウ

メソッド

セオリー

ハウツー

理論

顕在意識

大人の世界

 

 

 

 

自分だけの理解ではなく、

自分以外の他人にとって、

あなたの考え・行為・表現・創作、

これらを「理解・共鳴」できること。

 

 

 

 

例えば、神様と繋がって、

なんか我を忘れて表現をしたら、

きっとわかる人には、

「なんか魂を感じるよ!」って

理解されるかもしれない。

 

 

 

でもきっと、多くの人には理解されない。

なぜなら共通項となる「外側の世界」を磨いていないから。

 

 

 

 

魂のこもった演奏を、

何もわからないまま

チャメチャにやっても、

きっとわかる人には響くかもしれない。

その暑い魂は届くかもしれない。

 

 

 

 

でも、ほとんどの人には理解できない。

 

 

 

 

でも、ちゃんと理論があって、

演奏テクニックがあって、

演奏ジャンルがあって、

そーゆー多くの人にとっての「共通項」があれば、

もっと多くの人にとっては理解しやすい。

他者との「繋がり」(コミュニケーション)が取れやすい。

 

 

 

 

それが外側の世界。

それが共通項。

それが他者とのコミュニケーション。

それが他者との繋がり。

それが大人の世界。

 

 

 

 

 

 

内側の世界と外側の世界の両方を磨く

 

 

 

友だちとのおしゃべりなら、

何も考えなくてもいいかもしれない。

 

 

 

友だち以外の他人。

特定の人々に何かを伝えて

理解してもらうなら、

論理が必要かもしれない。

 

 

 

更に多くの不特定多数の人に何かを伝えるなら、

難しい論理を省き、

感情に訴える必要があるかもしれない。

 

 

 

そうやって、

何かしらの共通項を見出し、

外側の世界を磨くこと。

 

 

 

 

そしてそれと同時に、

内側の世界へ意識を向けること。

神様の存在に気づくこと。

真我と繋がること。

 

 

 

 

するとじぶんだけの「オリジナル」

自分らしさは自然と出てくる。

 

 

 

 

内側の世界は

アウトソースできない。

自分以外の誰かにやってもらうことはできない。

ゆえに自分自身で磨いていくしかない。

 

 

 

外側の世界は、

アウトソースできる。

誰かが変わってやってくれる部分でもある。

 

 

 

でもしかし、どこまでをやってもらうか、

どの部分は自分自身でやりたいか、

どの部分は手放してもいいか、

その部分の線引きをハッキリと決めること。

 

 

 

 

表現の部分は自分で行うのか。

それは誰かにやってもらうのか。

創作の部分は自分でやるのか。

あるいは創作の上流だけは自分でやり、

誰でもできそうな部分は誰かにやってもらうのか。

表現を伝える部分を自分で行うのか。

表現を伝える部分は完全にアウトソースするのか。

・・・

 

 

 

 

あげだしたらきりがない。

でも、この部分を

自分自身の中でどんどん明確化していくこと。

 

 

 

 

それがすなわち自分自身の「セルフイメージの形成」

と密接に関わってくる。ほとんど同義と言ってもいい。

 

 

 

「自分はこの程度」と思っていると、

「本当はやりたくないけど、仕方ないからやる」

という類の仕事、作業、行動を自ら選ぶことになってしまう。

 

 

 

「自分が本当になりたいのはコレ!」

と明確な状態があって、それ以外との明確なラインがあれば、

よりはっきりとした自分像(セルフイメージ)ができあがってくる。

 

 

 

捨てるものは捨てる。

手放すものは手放す。

削るものは削る。

やらないことはやらない。

 

 

その上で、

残った部分に対して、

「その部分の2元性」を見つめる。

 

 

 

 

つまり、残った部分にも必ず、

「内側の世界」と「外側の世界」

の2つがセットで存在する。

 

 

 

 

たとえば、

「ワタシャ、紙粘土でモノを作ること以外はやらん!」

と決めたら、

その枠の中で、内側の世界と外側の世界の両方を

磨いてく。

「紙粘土づくり」という枠の中で、内側の世界と外側の世界を磨く。

 

 

 

それ以外の仕事はもう

その人のセルフイメージの外。

紙粘土を教えることも、紙粘土作品を広めることも、

あるいはそれ以外の諸々のことも。

 

 

 

それは見ない。

捨てる。

勇気出して捨てる。

誰かにアウトソースしてもらう。

 

 

 

 

なぜなら、人生は短いし、

人一人の力は小さいし、

人一人の能力は神の前では矮小なのだから、

全部ひとりはできない。

誰かに頼るほか生きてはいけない。

 

 

 

 

 

捨てる勇気。

そして残った部分だけ見つめる。

自分の枠の中だけ見つけて、

その内側と外側の両方を磨いていく。

 

 

 

セルフイメージ(本来の自分)

をどこまで取り戻すことができるか。

これは勇気の問題なのだ