「好きなことして生きる」を
少しずつ、少しずつだけれども、
ずーっと実験してきて、
一つ気づいたことがありました。
「好きなこと純度」
という概念。
それについては、
昔の記事
「あなたが好きなことと思い込んでいるニセモノの正体を暴き、本物へと絞っていこう」
で少し書きました。
好きなことには、
純度があって、
例えて言うと、
「まあまあ好き」
↓
「好き」
↓
「すごい好き」
みたいな感じで、
好きの純度が高まるほど、
どんどん自分の心の一番底にある
「本音の部分」と密接に繋がっていきます。
そんで、これ、
口で言うのは簡単で、
文章で論理的に説明するのもカンタンで、
分かったつもりになるのもカンタンで、
実際にそれを使って、
自分の人生を1つ、また1つと、
今までの想像の外へ連れ出してあげる、
ということは、本当に・・・
難しい・・・
だって、
「自分で自分に薄っすら嘘をついている」
という恒久化された脳内プログラムを
「自分でメタ認知(認識)すること」
という行為は、
実際めっちゃ難しいのだよワトソンくん。
そんでかつ、それができた上で、
それを実際に行動して実行していくということは、
今まで体験していない「新しい恐怖」
と向き合っていくということなのだから、
なおさら、更に難しい・・・
という感じです。
本当に!
自分でも気が付かない。
ある時、
「あ!頭パッカーン、開けた!」
「理解した!」
と思っても、
好きなことやってるつもりでも、
だんだん、日々、知らないうちに、
気が付いたら、
嫌なことも含めて、アレコレと
いろいろ手を出してやってしまう。
ついつい頑張ってしまう。
力を入れて我力に頼ってしまう。
心とは、いつも揺れていて、
あっちへ行ったり、こっちへ行ったり、
定まらない。
感情(あり方)は、
論理(ノウハウ)を超える。
在り方が不安定だと、
ノウハウをたとえ知っていても、
その通り、実行できない。
で、結局、1つ1つ
実際に経験して、体験して、
体に落とし込んでいくしかないのです。
そーゆー意味で、
「失敗」は絶対必要です。
「失敗」がある意味でありがたい存在です。
「ああ、次は、もうこのやり方、考え方は辞めよう。」
って気づけるのって、
結局、実際に体験して失敗しないと
わからない。
そんで話をもどすと
好きなこと純度を高める
ってことなのだけれども、
それには、
次のような方程式があることがわかった。
恐怖と好きなこと純度の関係
「好きなこと純度が高まる」
とき、それは同時に、
心の中にある
「恐怖の度合いが小さくなる」
という反比例の関係。
そーなのだ、
あなたの心の中に潜む恐怖が、
あなたに嘘をつかせる。
ジェダイのお一人、
高橋歩さんが言っていた言葉を思い出した。
「ドランゴンボールが7つ揃ったら何したい?」
もう、これはつまり、
何でも可能な世界を例えたもの。
何でもできる世界、
制限も何もない世界。
何しても許される世界。
恐怖が0の状態。
もしなんでも(無条件で)叶うのだとしたら、
あなただったら何をお願いしますか?
制限とか一切なしです。
差し出す代償も一切ないです。
完全に自由なお願い事です。
そしたら何を願いますか?
でも、現実の世界では、
それがなかなかできない。
誰も何も禁止していない。
だけれども、
自分で自分に禁止をしている。
そういう脳内プログラミングを自分の中に課している。
「なんでも叶う」は理想郷。
現実は「今の自分はこの程度」と思い込んで、
「最低限、これくらいはやらないと」と思い込んで、
1つ、また1つ制限を自分で自分に課していく。
すると好きなこと純度が曇っていく。
そして曇った純度をまた、高めていくには、
実際に経験していくしかないとおもいます。
経験しないと、わからない。気づけない。
好きなこと純度を高めるキッカケ
好きなこと純度を高めよう、
と思えるキッカケの1つは、
好きなことをしていて、
だんだんと苦しくなる時がポイント。
好きなことがあんまり楽しくなくなってきたとき。
そのとき、自分の脳内プログラムを見直す
大きな気づきが訪れる。
「好きなことをして幸福」を得られていないとき、
心が教えてくれている。
「今、間違った方へ進んでいるよ」
つって、教えてくれている。
そしたら、
いまやっていることを
見直してみる。
今やっていることの中で、
「不純物」を見つける作業をしていく。
「実は、本当は、コレ好きじゃない」
「仕方なくやってる」
「え?だってコレは最低限やらないとダメでしょ?」
「好きなことだけじゃダメ。これくらいやらないと!」
みたいな言葉を言っていたり、
頭の中で考えていたら、
それは大きなヒント。
「ドランゴンボールが7つ揃うとしたら、何したい?」
あなたの本音はなんですか?
本当の本当に思ってたことは何ですか?
妥協は仕方ないですか?
ああ、僕はそろそろ、また、
純度を上げるときが来たようだ。