取引しない世界

 

お金が空気のようになって、

価値が0に近づくような、

そんな理想の世界について、

最近はより一層、考えることが増えてきたきがする。

 

 

 

この「お金のこと」については、

ずっと前から「書きたいなぁ~」って

思いがあったのだけれども、

 

 

 

 

でもね、なんか

よくわからないのだけれども、

なんか知らんけど

「どこかの誰かに怒られそう」

という、

 

 

 

何とも得体の知れない、

根拠もない、

なんとなくふわふわ~とした

思いが心の底に罪悪感として、

残っていた気がした。

 

 

 

 

だから、

何も書かないで、

何も言わないで、

何もなかったかのように、

やり過ごそうとしていたのかもしれない。

 

 

 

でも、まあ、きっと

こーゆーことを言う人が、

今後はもっと増えていくだろうから、

別にいっか。

 

 

 

 

ちょっと話は変わりますが、

そーいえば、僕のブログといえば、

基本的には「自分の書きたいことを書く」

というスタイルでやらせて頂いておりまっす。

 

 

 

がしかし、それでもやはり、

日々、読者が増えていったものだから、

それが面白くてね、楽しくてね、

 

 

 

 

だからこそ、

「読み手を意識」して記事を書いていた時期もありました。

人が増えてくるからさ、そっちを意識して書くほうが、

楽しかったのですよ。

 

 

 

 

でもね、今年に入ってから、

ほぼほぼ、そーゆーことを辞めましたです。

「読者を意識する」ということが、

僕の中で、かなり少なくなりました。

 

 

 

 

その代わりに、

より一層、自分自身について、

書くことが増えていきました。

 

 

 

 

そしたらね、面白いことが起こったよ!

 

 

 

 

毎月のブログ全体の読者数は、

およそ3割くらい減ったのだけれども、

それとは逆に、一日、一日、

その最新の記事にアクセスする人の数が、

3割くらい増えたの

 

 

 

 

そんな予想もしない結果になったものだから、

自分の中では初めての体験だし、

「へ~、こーゆー風になるんだぁ!」

って発見をして、そーゆー現象が、

すごくおもしろかったの

 

 

 

 

 

 

ま、それはさておき、

もうこのブログを書く記事の内容について言えば、

僕は「自分自身のこと」を中心にして、

アレコレ書いていこう、と思いまっすです。

 

 

 

 

 

話を戻しますが、

お金の話とか、

社会の話とか。

 

 

 

 

お金とか価値とか

 

 

 

僕たちは現在、資本主義という枠の中で生きている。

 

 

 

その枠の中で、僕らは

価値を生んで、それを交換して、

お金を得て、そして生活に必要なエネルギーに変換し、

自分の体の中に取り入れ、

自分の生命を維持し続けて生き続けている。

 

 

 

 

そんでこの資本主義の基本の1つに、

「お金でモノやサービスを交換する」

と言う考え方がある。

 

 

 

そんで、この

交換という考え方を

更に深く掘っていくと、

「取引」という概念に行き着く

 

 

 

 

そんで、この「取引」を

更にさらに深く掘っていくと、

 

 

 

 

取引とは、かみ砕いて言うと、

意図的に「2極の差」を作りだすこと。

そして、その2極の間には「落差」が発生する。

 

 

 

 

すると今度は、その「落差」によって、

「エネルギーの移動」が発生する。

という力学が生まれるのだ。

 

 

 

ここでいう「力学」とは

物理法則ではなく、概念の世界においても

まるで力学のような法則性を持つ、

ということなのだ。

 

 

 

 

でもでも、これって、

物理学の運動法則と

そっくりそのまま似ているのだ!

 

 

 

 

お金自体は、概念なので、

物理運動とは関係が

無さそうに見えるのだけれども、

 

 

 

 

まるで、あたかも、

この「概念」という形而上の世界においても、

物理学と同じような法則が

成り立っているように、

現実世界でもちゃんと作用しているところが、

とても面白いところなのだ!

 

 

 

この二極とは、たとえば、

「Aさん」と「Bさん」という二極かもしれないし、

「A社」と「B社」という二極かもしれない。

 

 

 

そして2極が生まれたところには差が発生し、

その差を利用して、お金と言うエネルギーは、

「A地点」から「B地点」へ流れていくのだ。

 

 

 

 

これが「取引」の力学なのだ。

 

 

 

 

ま、難しいことをさらに難しくして

誠にも仕分け無いのだけれども、

 

 

 

この「取引」とやつの本質について考えてみると、

つまるところ、この「取引」ってやつは、

「世界を2つに分断する」という

「二元論的な性質」を持っているのだ。

 

 

 

 

例えば、

「〇〇を上げるから、△△をちょうだい」

と言う風に、必ず「条件」によって、

世界が2つに分割されるのだ。

 

 

 

 

これはお金だけじゃない。

人と人との間のやり取りに関しても、

僕らは無意識に「取引思考」を使ってしまう時がある。

 

 

 

例えばね、

「勉強したら、おやつをあげますよ」

とかね。

 

 

 

「イイ子にしていたら、早く帰れますよ」

とかね。

 

 

 

勉強したらおやつがある世界があって、

勉強しなかったらおやつが無い世界になって、

 

 

イイ子にしたら早く帰れる世界があって、

悪い子のままだと早く帰れない世界になって、

 

 

 

取引で買った者はお金を得て、

取引で負けた者はお金を失う、

 

 

 

 

この取引思考というものが、

この世界の自然現象のあらゆる出来事に

共通して作用することがあるとすれば、

 

 

 

 

それは、この世界を

物理的にも、概念的にも

「2つに分断してしまう」

ということ。

 

 

 

 

取引思考はデフラグ

 

 

 

そんでね、この

「取引思考」ってやつは、

世界を二分割してしまうだけのものだとしたら、

 

 

 

「富み」の裏に

「反富」が同じ量だけ、

くっついていく、

と言うようにセットでとらえることができるのだ。

 

 

 

まるで物理学のように

物質と反物質の2セットのように。

 

 

 

あるいは、光と影の2セットのように。

 

 

 

温度が高い(熱い)と

温度が低い(寒い)の

2セットのように。

 

 

 

 

上に登るという概念と、

下に降りるという概念の

2セットのように。

 

 

 

この2セット(2極)の世界において、

取引思考は、お金(富)を一方だけに集中させ、

もう一方にはそれと同じ量の「別の何か」を

生み出すようにできている。

 

 

 

2つで1つ。

セットの関係なのだ。

 

 

 

例えば、

森に入って、木たくさん切って、

それで家を建てたり、

家具を作って、

世界中の人々に売った。

 

 

 

そしたらそれがお金と言う形で、

富が生まれたのだけども、

 

 

 

そしたら、今度は、

森の中にあった木々が無くなり、

森の動物たちの住みかとか、

食べ物が無くなってしまったとします。

 

 

 

たとえば、毎年、木の上になる

木の実を食べていた動物たちは、

今年から木が無いので、

生活に困ったりするんです。

 

 

 

そしたら、その年の冬、

動物たちは意を決して、

森を出て、危険を冒してまでも、

人間が住む村へ入り、

そこで畑の作物を荒らし始めます。

 

 

 

 

その結果、今度は、

村の畑から作物が無くなり、

村にかなりの損失が出ました。

 

 

 

そしたら、村の人々は、

自分たちの生活にも困り果て、

国に治める税金すらも払えず、

生活が困窮しました。

 

 

 

そしたら、その問題解決

をするために、森の木を売って得た

富を使って、

お金をかけて害獣対策をするのです。

 

 

 

 

と言う感じで、まあ、これは

物事の例をかなりわかりやすく例えたものだから、

そっくりそのまま信じなくてもいいのだけれども、

 

 

 

 

このお話で言いたいことは、

取引によって生まれる富とは、

社会の裏側で「副作用」も産み出し、

 

 

 

そして、その副作用によって、

「問題」が後日生まれる、

ということ。

 

 

 

そんで、その「問題」を解決するために、

結局、最初に得た富をその問題解決のために宛がう、

という「循環構造」になっているということ。

(2つで1つのセットの関係性なのだ)

 

 

 

これはまるでパソコンに例えていうなら、

ハードディスクの中で、

「データが移動しただけ」

「デフラグ(整理)しただけ」

と同じことが言える。

 

 

 

現実世界で言うならば、

「取引によってエネルギーが生まれた」

のではなく、

 

 

 

取引によって

A地点からB地点へ、

「エネルギーの移動が行われた」

だけのこと。

 

 

 

取引によって、

AさんからBさんへ、

「お金が動いた」

だけのこと。

 

 

そしてこの資本主義というエンジンを

回し続けていくと、

「富が一極集中する」

のと同時に、社会の裏側で

副作用も同時に生み出しているということ。

 

 

 

その副作用が、問題となって、

後日現れてくる、ということ。

 

 

 

そしてその問題を解決するには、

その問題を起こした原因と同じ量のエネルギーを

その問題に宛がって相殺させて

すべてを0に戻す、ということ。

 

 

 

でもでも、それはおそらく

現実的な解決方法にはならない。

 

 

 

 

なぜなら、僕らはもう

原始時代には戻れない。

そんな暮らしはできない。

 

 

 

 

だからまた、何らかの形で、

エネルギーの移動を起こし、

「問題を解決する」のではなく、

「問題を変化させて別の状態に変える」

ということをする。

 

 

 

「問題を解決する」のではなく、

「問題を変化させて別の状態に変える」

 

 

ということね。

 

 

 

これによって、

僕らは問題を解決させる。

 

 

 

 

これはつまり、本当の問題解決(0に戻す)ではなく、

今の僕らにとって問題となっていたものが、

問題とならなくなるということ。

 

 

 

 

つまり言い換えると、

問題自体は消滅しないのだけれども、

今この時代において、

問題となっていたものは別の形に変化したため、

問題とならなくなった、

ということ。

 

 

 

そしてその変化した状態を

未来の世代にバトンタッチしていく、

ということ。

 

 

 

人間の歴史は、この連鎖をずっ~と繰り返している。

 

 

 

 

とりあえず今、危機は去った。

後のことは、未来の人に任せよう。

 

 

 

そんな感じ。

 

 

 

だって相殺させたら0になっちゃうから、

すべてが原始時代に戻ってしまう。

 

 

 

でも歴史はそうならない。

 

 

 

問題を変化させ、別の形にし、

今その時代は問題から回避される。

がしかし、その後の未来で、

その変化した「別の形」の何かは、

きっと未来のいつかの時点において、

また「新たな問題」となって形を変えていく。

 

 

 

 

そーゆー流れなのだ。

 

 

 

 

 

すっげー長くなったけど、

やっと本題に入れる。。。

 

 

 

 

 

 

 

 

最近になって、僕は、2年前に書いたブログ記事のことを思い出した。

 

 

 

なぜなら、その傾向が、

これからの時代、

どんどん本格化しつつありそうだから。

 

 

 

それにいろいろな人たちも同様に

アレコレ語っていると思うけれども、

きっとAIとかITとか、仕事が無くなるとか、

 

 

 

つい最近まで未来だと思っていたことが、

もう現実になる直面に来ているのだと思った。

 

 

 

 

でも、僕はもっと先のことに

興味があるの。

 

 

 

僕は思う。

 

 

 

 

産業が変わったり、

生活が変わることよりも、

 

 

 

 

 

「取引思考」

これに替わるものの重要性について。

 

 

 

 

この大前提の枠の中で

物事を考えていることより、

これを抜けた後の世界について、

個人的には意識が向かってしまうのだよ

 

 

 

 

取引思考がある限り、

資本主義的なものは

続くと思う。

 

 

 

それが良いことか悪いことか、

あまりにスケールがデカすぎて、

ワタシのような人間には、

まるで判断のつかないことであります。

 

 

 

がしかし、それでもなお、

世界を2分割し、「成果物」と「問題」

の2つを生み続けるこの「二元論」的な考え方を

脱出したほうが良いだろう、という感覚はあります。

 

 

 

「取引思考」を否定するとなれば、

まるであたかも、全世界の人に対して、

反抗しているような、そんな

見えない罪悪感に襲われることがあります。

 

 

 

 

「取引思考のないこと」を

言い換えれば、資本主義をしないとか、

もっとかみ砕いて言うと、

「仕事しない」とか「生きるな」

と捉えられても仕方がないくらい、

人々の根幹を揺るがすような言葉になりうるから、

勇気がいりますよね。

 

 

こんな大胆なことを言う人は、

まだまだ少ないのだと思います。

 

 

 

 

でも「お金が空気みたいに当たり前の存在になる」

つまり、0に近づくためには、

「取引思考」という概念からの囚われに

開放される必要があるのだなと思った

 

 

 

そんで、それを実現するためには、

ノウハウじゃなくて「在り方」

のみで可能だということに気づくことなの

 

 

 

 

それを実体験している人も、

実際に今の時代にも少なからずいる。

 

 

 

そーゆー人たちを見て、

そーゆー生き方の証拠集めをし、

少しずつ、自分の中に確信を強めていくこと、

 

 

 

そーゆー態度から入ることが、

とても大切だったりする。

 

 

 

 

 

取引思考からの解放

 

 

 

取引思考から解放するには、

在り方を変える必要がある。

 

 

 

それについては2年前に書いたブログ記事でも

書いた通り。

 

 

 

もしお金が無くなっても、

資本主義の仕組みが機能しなくなっても、

時代が変わっても、

 

 

 

僕らは自分を大切にしたり、

人を大切にしたり、

みんなを認め合ったり、

 

 

 

感情の部分での成長をすれば、

生きるに困らなくなる。

 

 

 

僕自身もそれを実体験を通して、

少しずつ腑に落としていっから、

そんな風に思えたの

 

 

 

 

僕は現在、資本主義の中で、

自分自身がわずかな時間だけども、

多少なりとも、経済活動に加担したり、

あるいは不動産の恩恵によって生かされたり、

既存の枠組みに生かされながら、生活をしております。

 

 

 

それでも、それは今の自分が生かされるだけの、

本当に最低限のレベルだけ。

これ以上拡大しようと全くしていないんです。

(そんなことに時間を費やすことが本末転倒になるからなんです)

 

 

 

 

なぜなら、僕は、本当は怖いのだけれども、

それでも勇気を出し、ほとんどの仕事を放棄しました。

 

 

 

 

その代わりに、自分の作品を作り続けることや、

自分の世界を好きになってくれる人に出会うこと、

1日の多くの時間を割けるよう、

日々、意識をそっち側へ向けるように努めております。

 

 

 

 

それと同時に、もしこれから先、

資本主義が限界を迎え、たとえお金が消えたとしても、

あるいは今まで通りにお金のやり取りが通用しない、

そんな世界が訪れたとしても、

 

 

 

僕は、最低限「生活に困らない人間関係のインフラ」

によって同時に守られながら、

両輪を回しながらこれからのための準備をしているの

 

 

 

ありがたいことに僕を守ってくれる友人たちや知り合いの輪が増え、

もし僕が生きるに困っても、

きっと誰かが何とかしてくれる、という

根拠のない安心があったりします

 

 

 

 

でも、それは人をコントロール(取引思考)をして得ることでもないし、

やっぱり、心を磨いて、在り方を変えていくからこそ、

意図しなくても、結果、自然の摂理によって、

なんか知らんけど、そーゆー安心空間へ

引き込まれていくようになっている気がする

 

 

 

 

だからね、

「時代が変わるから稼ぎ方を変えよう」

「新しい稼ぎ方をしよう」

と言うレベルの話じゃない気がするのだね

(それだと取引思考から抜け出せていない)

 

 

 

 

そして、その新しい時代の期間は、

歴史のパターンを見れば、

おそらく、今までの中で最も短期間で終わる。

 

 

 

 

そんで、その先に、

さらなる変化の時代が

訪れると思う。

 

 

 

だからこそ、

もっともっと大きなスケールで、

今限界を迎えつつある資本主義の時代、

その後の世界について、

見ようとする意識がとても大切なのかもしれないし、

 

 

 

 

それに在り方を磨いたり、

人を大切にしたり、

今までとは全く違う価値観を

身に着ける時代が来たんじゃないか、

そんな風に思った。

 

 

 

 

なんつーか、もっとこう、

「みんなもっと他人に興味持ったほうがいいかもしれん」

「みんな世界に興味を持ったほうがいいかもしれん」

「みんなで1つのことを協力したほうがいいかもしれん」

「既に回らなくなってる仕組みを無理して回し続け、頑張って経済活動に加担している無駄に気づき、やりたくないことをみんなで一斉に手放したほうがいいのかもしれん」

「自分の魂が震えるような心躍ること、好きなことをして生きたほうがいいかもしれん」

(↑結果それが、自分の平和と、どこかの誰かのためになるので)

 

 

 

 

ちょっと最近までは、

「理想郷」を描く人は、

アホだし、頭の中お花畑だし、

非現実的だし、

無価値な人、

 

 

 

そんな風に思われる時代があったかもしれんです。

 

 

 

がしかし、そろそろ僕らは、

「理想郷」を描かないと、

間に合わない時代に突入したのかもしれん。

 

 

 

 

 

そんな風に思った。

 

 

 

そんじゃ