台風の目のように生きたい
台風の目のように、
空っぽに生きる
突き詰めていくと、
全部、空っぽなんだ。
自分らしさも、
好きなことも、
感情も、
最後には心さえも、
ぜんぶ空っぽなんだ。
すべてはちっちゃい物質たちが
集まって、振動したり、
互いの関係性の中で、
反応しあって、
絶えず移ろいで、
変化し続けていて、
それなのにそれに対して、
何かしらの意味を付けたくなってしまう。
それが人間だもの。
毎年雪が降れば「冬」と意味付けをしたくなるし、
時代を超えて語り継がれることを「不変の法則」のように考えてしまうし、
自分自身の性格とか思考パターンが繰り返されれば、
それを「自分らしさ」と思い込むし、
でもそれはちっぽけな人間の視点からみた世界。
もっともっと大きな宇宙の視点から見たら、
それれは複雑系(Complex System)という物理法則のもとに
「たまたま」の偶然で成り立った「一瞬の時間」
のできごとであり、
やがて、長い長い宇宙の時間を通して見れば、
それらは「偶然の出来事」の連続であり続ける。
しかし短い人間の時間感覚でみると、
それらはあたかも何かしらの「規則性」や「秩序」
があるかのように思えてしまう。
そしてやがて、誰かが勝手にそれらに法則性や定義を付け始める。
だけども、やがて長い宇宙を通して、
生成されたそれらは、今度は崩壊へ向かっていく。
時間は、絶えず流れていく。
状態は、変化し続ける。
だから、
真理なんて存在しない。
本当なんて存在しない。
唯一無二の正しさなんてない。
自分らしさもない。
感情もない。
本心さえもない。
最後には心すらも消えてなくなる。
それらすらも、
ちっちゃい物質たちが、たまたま集まり、
短い期間(人間が認識できる期間)に
たまたま、ある同じ振る舞いを行っているだけ。
やがて、そのあとは、それらも散り散りになって、
また別の法則性を形作っていく。
ぜんぶ、たまたまだ。
本来、意味は存在しなかった。
そしてその小さいものたちも、
振動を辞めた途端、
また存在が消えていく。
全部、空っぽなんだ。
それなのに、
その幻想に対して、
「自分の我」を持とうとしてしまう愚かな自分。
自分のアイデアを生み出す時も、
作品作りに没頭しているときも、
自分の力なんて、
何一つない。
自分という肉体を通して、
自然が何かを産み出し続けてくれている。
自分はただの媒体だ。ミーディアムだ。
何日も時間をかけて作る作品も、
一瞬にして作る作品も、
どれもすべて、本来、自分のモノじゃない。
自分のアイデアなんてない。
全部、自然の賜物。恩恵。
そこに我を持つなんて、
そもそも意味がないこと。
自分は何も所有していない。
この体も。
アイデアも。
思考も。
自分に授かったすべて、この、
たまたまの恩恵を感謝すること。
台風の目のように
すべては幻想で空っぽなのだから、
自分自身も空っぽなんだ。
なぜなら、
自分で自分自身の目を見ることはできない。
自分でも自分を定義することも出来ない。
周りの人間がたくさんいればいるほど、
「自分」と言う存在をいろいろな角度で
説明してくれる人たちが増えていく。
だからこそ「自分」が何者なのかが
だんだんとわかってくる。
だけども、いつまで経っても、
自分が自分を知ることはできない。
自分は空っぽ。
台風の目のように、本体は存在しない。
だからこそ、
そこに我を持たない。
意味付けもしない。
宇宙の時間から見たらほんの一瞬のような
この偶然形作られている「自分の状態」
にたいして感謝しかない。
変化し続ける流れの中で、
この自分はもう二度と戻ってこない。
一期一会の存在。
だから、一瞬、一瞬を
大切に生きたいって、思えてくる。
台風の目のように、
中心はない。
自分もいない。
心も無い。
だから、
我を持って執着しなくていいよ自分。
渇望に飢えなくていいよ自分。
当たり前にならなくていいよ自分。
芯を持とうとしなくていいよ自分。
台風の目のように、
中心はない。
自分もいない。
心も無い。
だから、今度は逆に、
怖がらなくていいよ自分。
不安にならなくていいよ自分。
心配しなくていいよ自分。
悩まなくていいよ自分。
台風になる
自分が「台風の目のように空っぽ」であること。
それを受け入れたら、
今度は「自分はまた、台風でもあること」
に気づいていこう。
すべては空っぽだけれども、
「唯一残された最後の人間性」
を持ちたい、と願うから人間に戻れる。
これを1ミリも持たない人は、
自然の法則のままに生きる動物のような状態。
でも人間はこの「最後のひとかけら」を
手放していない。
ずーっと握っている。
これが人間性。
これは言い換えると「信念」
信念を持つと、
エネルギーが発生する。
やがてそれは台風として育っていく。
信念は実証するものではない。
信じることそのものだから、
証明をする意味が本来ない。
「ある」と思うからあるんだ。
「ない」と思うからないんだ。
電気のスイッチのように、
一瞬で状態が変わることなのだ。
自分が空っぽであることを受け入れたら、
今度は自分がまた台風自信であることも
受け入れていく。
自分らしさもある。
自分には感情もある。
心もある。
思考を持っている。
信じているものがある。
情熱がある。
好奇心がある。
自分軸ができあがる。
やがて空っぽの状態の自分の周りに、
「空っぽであることを定義する器」
となる「台風そのもの」が発生する。
台風そのものが、台風の目の周りに存在しなかったら、
台風の目は存在しない。
そこはただの本当に何もない空間となる。
「台風」があるからこそ、
「台風の目」であると気が付ける。
自分には「信念」があるからこそ、
「自分は空っぽ」であると気が付ける。
世界はまるで、
「あること」と「ないこと」
を同時にもつ二重性を持つように振る舞う。
それを軽んじないこと。
それをそのまま受け入れること。
決してうぬぼれないこと。
おごらないこと。
本来、
自分の台風を大きく育てたい、
影響力を大きくしたい、
と考えること自体が、
渇望であり、
我にとらわれていること。
だけれども、
最後の人間性の砦である
「信念」があるからこそ、
「自分らしさ」を取り戻したいと
思ってしまうのが人間。
この自分らしさにあこがれを抱きつつも、
決して、渇望しないこと。
そのうえで、台風が大きくなるには、
空っぽの自分の周りに起こる
あらゆる出来事を受け入れていくこと。
我を持たず、ありのまま受け入れていくこと。
出来事も人も、ものも、
すべてをそのまま受け入れていくこと。
自分自身は空気のように振る舞うこと。
自分自身は空っぽであること。
それでも「自分らしさ」を大切にしようと
思うのであれば、
台風の目を定義してくれる台風そのものを受け入れること。
つまり言い換えると、
空っぽの自分(台風の目)を存在させてくれる(定義してくれる)
周りの人々・考え、価値観、世界(台風)となりえる
あらゆるすべてを1つ1つ、受け入れ、
その人たちの台風の目を認めてあげること。
その人たちの台風の目は、
あなたの台風であり、
あなたの台風の目は、
その人たちにとっての台風。
すると今度は逆に、
「自分は一人じゃない」
「自分は空っぽじゃない」
「世界は無じゃない」
「自分はみんなと一緒」
ということに気づいていけるのです。
そんな風に
生きてゆきたいです。
そんじゃ