ネガティブな方は無我の境地で

 

 

 

 

最近はよく、真我とか

神さまについて書いてたから、

今日はちょっと無我について

書いてみたくなった。

 

 

 

 

 

人間は、何かにつけ、

意味付けをしたがる生き物

 

 

 

 

意味付けをすると、

パワーが得られる。

人間だけが使える「信念」という

とてつもなく強力なエネルギー。

 

 

 

 

だからこそ、人は、

見えない未来も、

先がわからない世界も、

 

 

 

 

1歩ずつ前へ進んでいける。

そうやって歴史を作ってきた。

 

 

 

 

でも時には、

心を0へ戻してみることも

大切なのです。

 

 

 

 

そう、無我の境地へ。

 

 

 

 

おばけヒヨコ

「なーんも考えとらん・・・」

 

 

 

 

 

 

ネガティブは無我で対処

 

 

 

 

前の記事「恐怖を消す方法」では

「恐怖」というネガティブ

について書いたけど、

 

 

 

今回はもっとネガティブ全体について

無我でとらえてみる。

 

 

 

 

精神的な苦痛も、

肉体的な苦痛も、

無我がそれらから救ってくれる。

 

 

 

 

きっと人によっては、

「今苦しいのは何か意味がある」

みたいな感じで、

何かしらの意味付けをする場合も

あるかもしれないけど

 

 

 

そしてそれはそれで

良いと思いますが、

 

 

 

 

ワタシの場合、

無我で対処

しちょります。

 

 

 

 

つーか、ワタシの場合、

これしか知らない。

 

 

 

 

 

無我になると

消えてなくなる

 

 

 

 

 

無我とは・・・

 

 

 

 

無我とは、

ひらたくいったら、

ただ観察するだけのこと

 

 

 

 

 

つまり、

嫌なことがあったら、

「嫌なことがあった事実」を見る

 

 

 

苦しいことが起こったら、

「苦しいことがあった事実」を見る

 

 

 

 

見る。

観察する。

 

 

 

 

もっというと、

ありのままを見る。

ありのまま受け入れる

 

 

 

「そ~なんだ~」

の境地

 

 

 

 

「タンスの角に足の小指をぶつける」

 

 

 

 

めっちゃ痛い。

めっちゃ地獄。

 

 

 

 

でも、

気を紛らわすことをしない

逃げない。

 

 

 

ありのままを受け入れるしかない。

 

 

 

「痛い」という事実を

見る、というのは、

「痛いと思ってる自分がいる」

という感じで、一歩引いて、

まるで他人になったように、

客観的にその現状をとらえる感じ、

 

 

 

 

というよりも前に、

まず最初に「痛い」を味わう。

逃げずに味わう。

それを受け入れる。

 

 

 

ただし、感情に飲み込まれない。

感情と感覚を完全に切り離す。

 

 

 

 

「ああ、痛いねぇ」という感覚。

そこに「悲しみ」とか「苦しみ」とか

そーゆー感情を結び付ける前に、

 

 

 

 

「痛い」という感覚を

逃げずに味わう。

「気を紛らす」前に、

まず味わう。

 

 

 

 

「痛み」と100%、

真正面に向き合い、

逃げずにタイマンする。

痛みを受け入れて味わう。

事実を受け入れる。

 

 

 

 

 

これがたぶん、

いちばん早い

「痛み」の消し方。

 

 

 

 

 

ワタシ、昔、

ガチ目の瞑想合宿

みたいなのを体験して、

そこで学んだこと

 

 

 

 

 

ワイの知ってるヴィパッサナー瞑想は、

たぶん、いちばん古くて、

原始的なやつだから、

 

 

 

その他の瞑想とは

いろいろ違う部分があると思う。

ワタシ、ヴィパッサナー以外の瞑想のことは知らん。

 

 

これは、

言葉による意味付けもしないし、

さらに時代とともに発展していったその他の瞑想とも違う。

 

 

 

パンで言ったら、

アンパンとかジャムパンとか

いろいろなパンがあると思うけど、

 

 

 

たぶん、ヴィパッサナー瞑想は、

シンプルに「パン」

ただの味のない「パン」

 

 

 

というくらい原始的。

 

 

 

 

でも、その代わり、

意味付けが一切ない。

 

 

 

 

そんで、実際に

連続瞑想の9日目の日、

実際に、足のしびれによる激痛が

「激痛」から「無痛」状態に

完全に切り替わるポイントを体験シタ。

(そんでもって、瞑想って、あるポイントまで到達すると、快楽状態にまで切り替われたの)

 

 

 

 

そんでもって、これは

肉体の痛みだけではなく、

前に書いた記事で取り扱った

「心の痛み」についても同じ。

 

 

 

 

たとえば「恐怖」については、

恐怖から逃れるのではなく、

恐怖とタイマンする。

 

 

 

 

逃げずに見る。

怖いものにフタをせず、

ただ見る。

その現実を受け入れる。

 

 

 

そこに意味付けをしない。

フィルターをかけない。

ただ観察する。

ただありのままを見る。

 

 

 

 

恐怖から逃げると、

恐怖は増大する。

 

 

 

恐怖の大本を断つには、

恐怖そのものを見る。

 

 

 

 

見続けるとやがて、

恐怖の黒い炎は、

少しずつその勢いを小さくし、

 

 

 

やがては完全に消える。

完全に無になる。

 

 

 

 

みたいな。

 

 

 

 

 

ま、あくまで、

ワタシにとって、

良いなっていうやり方ね

 

 

 

きっと他のやり方もあるし、

それはそれで良いと思います。

 

 

 

 

ワタシは、ネガティブについては、

「観察」の境地で

物事を見るようにしておりまする

 

 

 

 

 

現実を観察すること

 

 

人間の脳みそが、物事を

ネガティブかポジティブか、

どちらかに選別する前の世界がある。

 

 

 

それが観察の世界。

感覚器官の世界。

 

 

 

そこで観察を

継続していくと

無我の世界の方へ

少しずつ入っていける。

 

 

 

そんで、

ワタシ、自分の内側の情熱

「好きなことの情熱」を

生み出す時は真我を大切にしたいと思うけども、

ワタシ、思ったね。

 

 

 

 

ワタシがワタシの外の世界、

つまりワタシ以外の他人の世界、

つまり外の環境について、

「その中でワタシがどう生きていくか」

ということを考えるとき、

 

 

 

 

ワタシはまず「無我」になって、

アレコレ自分の色眼鏡を付けず、

この現実の世界をありのまま、

「観察する」ということがとても大切と思った。

 

 

 

 

そう思った次第。

 

 

 

 

「現実をありのまま受け入れる」

「現実を見る」

「良い悪い判断せず、ただ見る」

「それを自分のフィルターをかけず、まっさらな心で、まずは受け入れる」

 

 

 

 

「世界とはこうだ」

というのは自分の思い込み。

「実際の世界はこう」

はありのままの姿。

 

 

 

 

すると、バイアス(枠)がない、

曇りなき眼で、

つまり自分の中の勘違い・思い込み

などが出来る限り少ない状態で、

この現実世界を知ることができる

(ただ、人間なので100%枠がない状態は、無理だと思う)

 

 

 

 

 

 

バイアスが少ない状態で

この現実世界をとらえると、

ワタシはこの世界に対しての

「正確さ」を手に入れることができる。

 

 

 

 

 

正確にものごとを把握するというのは、

言い換えれば、

この現実世界をありのままの姿で

とらえることができるということ。

 

 

 

 

そうすれば、ワタシ、

自分の「真我からの情熱」と、

「自我の方向性」との間に、

ズレや間違いがより少なくなり、

 

 

 

 

ワタシの中の何かが、

よりいっそう、

まっすぐに繋がり、

軸が太くなっていく。

 

 

 

つまり、

「ワタシがこうだ!」

と思っていたとしても、

もし現実は「こっちだ!」

という感じで全然違う場合、

ありのままの観察によって得られた「正確さ」

によって、そのズレというものが、

どんどん少なくなっていく。

 

 

 

 

 

そんな風におもう

 

 

 

 

ちょっと話がズレたけども、

無我の境地は、

ネガティブのとき、

よく効くので、

大切だなぁと思った

 

 

 

 

そんじゃ