令和元年。
時は、情報化時代、
真っ只中。
IT技術の急成長により、
情報化時代では情報が瞬時に飛び回り、
数十年前までではありえないほどの巨大な情報量が、
毎秒毎秒、生まれ、拡散され、
その情報量は、今もなお、増大中。
今後もこの流れはどんどん加速していく模様。
ひよこ
「そんな情報化時代にボクちんは生きておりましゅ」
「情報を取らないと生きていけないんでしゅ。」
「情報に乗り遅れたら、即死なんでしゅ!」
「だから常に、なんどきも、こうやって、必死に情報を収集してるでしゅ!」
情報を取らないものは負け続け、
情報を持つものが勝つ。
みたいな風潮が、
少しずつ言われ続け、
人々はそれを少しずつ、
うのみにし始めてきている。
だから、情報大切なんだ!!
情報は価値があるんだ!!
というね、
世界観。
資本主義のシステムの中では、常に
競争原理が働いております。
情報化時代も資本主義というルールを
引き継いでおるのです。
ひよこ
「必死に競争して相手に勝たないと生きていかれない!!」
という世界観。
情報は価値がある?それとも0円?
情報を持つものは勝つ、とかさ、
情報をとらない者は今後、
どんどん貧しくなっていく、とかさ、
いろいろ言われているけれど、
その理由とか原因とか、
どういう仕組みでそうなっているとか、
考えたことある?
あ、答え↓
情報には価値があり、
情報は0円である。
(ズバリ、どっちも正解なのだ!)
情報はたしかに価値がある。
そんで価値があるものは、誰かが奪おうとする。
だからそれを守らないといけない。
あなたの銀行口座アカウントにあるお金
(実際には金額ではなくて、金額を数字にしたデータ)
という情報が眠っている。
銀行はそれを毎日、必死に守ってくれている。
ハッカーたちに狙われて、大切なお金(データという名の情報)
が奪われないように。
たとえば、あなたの個人情報、
たとえば住所とか、名前とか、年齢とか、
そういうのは日本の政府の、自治体の方で管理されていて、
そのデータもはやり、ガッチリ守られている。
(と信じたい・・・けどね)
価値あるものは守られるのだ!
と同時に、
情報は0円でもあるのだ。
情報というのは、
例えるなら、
水みたいなもの。
空気みたいなもの。
つかみどころのないもの。
増殖しやすいもの。
一度、流れる、
いとも簡単に、永遠に果てしなく、
流れ続ける。
大切な写真のデータは、
カンタンにコピーできる。
しかも瞬時に、大量に量産できる。
同じものがたくさん作られるほど、
そのものの価値というのは0に近づいていく。
それが資本主義のルールの原則の1つ。
もし、アイスクリームが年に一度、
決まったお店で決まった時間帯にしか
売ることが許されなかったら、
そのアイスの価値は激増する。
でも、実際のところ、
アイスクリームは、いつでもどこでも、
コンビニとかスーパーとか、
24時間、どこでも簡単に手に入る。
だって町中に大量な数が用意されているから。
だから、安価で手に入る。
情報はね、たとえるなら、まるで
アイスクリームと同じように、
価値をどんどん下げられる、という
そんな側面も持っているのだ。
だから、情報は価値があって、
価値がないものなのだ。
両方が同時に存在するのだ。
知ってる人から学ぶ VS 好きな人から学ぶ
情報化時代が発展していくとき、
今後もあらゆるさまざまな種類の情報の価値は
どんどん0円に近づいていくでしょう。
というか、その流れはもう既に始まっている。
あらゆる「学び」は0円で手に入るようになる。
なぜって、一度知った情報は、いとも簡単に
コピーして量産できるから。
こうしてブログに書いたり、
誰かがユーチューブで動画にしたり、
SNSで発信したり、
いとも簡単に知れ渡る。
そして一度流れた情報は、
半永久的にネットの世界に残り続ける。
もちろん、それと同時に、
新しく生まれる情報の中でも、
誰にも知られないように鍵をかけて
頑なに守らなければならない類の情報、
というのも今後どんどん増えていく。
たとえば、銀行のお金のデータとかね。
お金系、個人情報系、会社や団体の情報系、危険物に関する情報系、
みたいな、ちゃんと守らないといけないものは、依然として残るとおもう。
でもね、「有益な情報」という類は、
皆が欲しがる情報は、今後もどんどん、
拡散され、価値が0に近づいていく。
だ・か・ら!
「競争して情報を得る」
という世界観に居続けると、
ますます疲れちゃうね。
だって急いて仕事しないと、
大量に行動しないと、
必死に探さないと、
リスクを負って手に入れないと、
最初の価値にありつけないのだから。
でもでも、
0のまま解放しちゃおう。
どーせ0のままでもいいのだから。
好きな人から学ぶ
「情報が0でも大丈夫」
の世界は安心の世界。
安らぎの世界。
イージーモードの世界。
だって、そういう人たちは、
情報で食べてるわけじゃないからね。
情報に価値を置かず、
自分自身に価値を置いているから。
同じようなことを言っている人たちが、
これからもどんどんたくさん出てきたらさ、
もう、同じようなことそのものに価値はないでしょ。
目新しさも、新鮮さも、価値も何も感じない。
「あ、またか」と。
だから、どうせ同じようなこと(情報)を得るのなら、
好きな人から、の方が、イイね。
好きな人が言うことって、
めっちゃ頭に入るじゃん?
めっちゃ、気分いいじゃん?
吸収率半端ないじゃん!
あ、ときどき、あえてわざと、
「嫌いな人から学ぶ」をすることもあるよ。
それは、自分が絶対考え付かないだろうな、
というようなアイデアをそういう人から知れるから、
「枠を広げる」という意味で、ときどき、たまに、
「嫌いな人からも学ぶ」を取り入れるときもある。
それを書いたブログはこっち↓
でも、それはごくたまに。
別にやりたくなければやらないほうがいい。
ちょっとトリッキーなことだしね。
通常は、好きな人から学んだほうが、いいね。
だって気持ちも良いまま、吸収できるじゃん!
あるいみ、一番、効率良いじゃん!
だからね、
情報に踊らされなくていいのだ。
「自分の心の好き」が指し示すほうを行けば、
結局、同じような結果が得られたりするのだ。
(要は、ハードな道か、イージーな道か、
結果までの道のりが変わるだけなのだ)
どっちを行きたいかはあなた次第なのだ。
だから、結局、「情報」という物自体に、
踊らされ翻弄される必要はないのだ。
そんじゃ。