ネットでもリアルでも、
いろいろなところで、
たくさんの人との交流がある。
人が増え、人との交流が増えるほど、
コミュニケーションが増え、
それと同時に『誤解』
も比例して増えていく。
「あ、そういうつもりで言ったわけではないの」
とか
「え?ちょっとそれ意味わかんない!」
とか
僕らは勝手に相手を誤解し、
また相手から勝手に誤解される
たとえばさ、ブログ書いてるとき、
自分では、情熱をこめて書いた記事なのに、
割とほかの人の反応が薄かったり・・・
(´・ω・`) ショボーン
テキトーに書いた記事なのに、
ある人の心には、
すっごく刺さってしまったり・・・
(´・ω・`) あっ。。。
「すっげー面白い!」と思って書いたのに、
割と周りの反応がシラケていたり。
( ´_ゝ`)フーン
やつつけで書いたのに、
なんかすっげー読まれてる記事とかあったり・・・
ヾ(。 ̄□ ̄)ツ ソコっ!?
いろいろな人がいて、
いろいろな考えがあって、
いろいろな解釈があって、
ああ、みんなそれぞれに
違うんだなぁ・・・
(´▽`) イトオカシ
と考えさせられますです。
これはブログじゃなくても、
ユーチューブの動画でも、
SNSでも、
職場でも、
家庭でも、
友達の中でも、
どこにでもあるもの
そそ、
永遠のテーマですな!
そして、「誤解」によって生じた、
絡まった糸と糸の複雑さを
どうやって解いていこうかな
と考えたとき、
こんな風に思うのです。
誤解との付き合い方
誤解が生まれるのはもう、
仕方がないこと。
100%消えるなんてありえない。
あって当然。
まずはそういうスタンスで見て、
誤解を受け入れます。
つーか、
「誤解しないように、誤解しないように」
っていってビクビクしながら話していると、
本音も言えないし、
逆に相手に伝わるような会話ができなくなるし、
相手もあなたに反応してしまい、
お互いに「ビクビク」空間を増幅させてしまう。
あなたに同調する相手なら、あなたと同じくビクビク振る舞うし、
悪意を持った相手なら、あなたのビクビクを利用して、
あなたより優位な立場を形成する。
とにかく、対等なコミュニケーションができなくなってしまう。
だから、もう「誤解」を恐れない!
完璧主義を目指さない!
「誤解」は、お野菜をゆでたときに
出てくる「アク」みたいな感じ?
もう、出てきてしまうものなのだ!
それはそれで仕方ないね。
それはそれでOKにしようね。
大切な人ほど丁寧な会話
あなたにとって大好きな人、
大切な人、尊敬する人、憧れる人など、
に対しては、ゆっくり、丁寧に、
何度も、時間をかけて、
「誤解を解いていく」ということを意識する。
その解き方とは、
「あなたが正しいと思っていること」を相手に説得させるのではなく、
「相手が正しいと思っていること」を我慢して受け入れるのではなく、
お互いに本音を交換すること。
「私は、このように思っています」
「あなたは、どのように思っていますか」
シンプルに交換するところから
始まるのだ。
「正論」を言って論破するより、
相手を理解しようとする姿勢
の方が、2兆倍大切なのだ。
相手に興味を示すことから、
誤解の糸が、少しずつ、
解きほぐれていく。
大切な人ほど、
ゆっくり丁寧なプロセスなのだ。
一発、正論ぶちかまして、
「どうだ!参ったか!」
では、誤解の糸は解きほぐれず、
結び目は石ころのように、
更に冷たく硬くなっていく。
(まあ、あまりに正論だと、パッカーンする場合もあるかもだけど、
その代わり、あなたとの関係性はどんどん疎遠になっていく)
「寄り添って、聞いてあげる」
が先にできた人の勝ち!
ありのままをOKにすること
あなたにとってどーでもいい人。
不特定多数の人。
どこかの知らない人。
あなたが、
尊敬してる人でもなく、
好きな人でもなく、
大切な人でもない。
つまり、あなたにとって
「どうでもいい人」
このような人に対して、
誤解を解こうとしなくていい!
誤解を解こうとしちゃだめだ!
言いたいことを
言いたいときに
言いたいように言おう
あなたはあなたが感じてしまったこと、
思ってしまったこと、
それを自由に言って良いのだ。
自由にありのままにフローさせればいいのだ。
周りを気にして、
世間体を気にして、
常識を気にして、
一般的な正しさを気にして、
あなたは自らの手によって、
あなたの感じたことを
封じてしまう。
そうすると、
あなたの中の心の光が弱まる。
オリジナルが消えていく。
埋没していく。
あなたは周りの人間に溶け込んでいく。
正論を言うことは時に正しいのかもしれないけれど、
自分の意見を堂々と言えることは、
あなたがあなたらしくあることの証。
例えばね、
カルチャーショックだったんだけど、
アメリカ住んでた時さ、正論じゃなくて
「自分が思ってることを主張する」ことが
めっちゃ求められるし、良いこととされてた。
「間違っててもいいから自分の意見を言え」
的な風潮がすっごく重視されててさ。
ま、自己主張が激しすぎるアメリカ人を
すごくウザく感じたときもあったけどねw
だからね、誤解を解くための
時間も情熱もコストも
どーでもいい人たちに向けて、
使わなくていいのだ。
あなたはあなたらしさを出していけばいいのだ。
あなたはあなたの世界を構築していくのだ。
あ、誤解が無いよう言うと、
アメリカ人のように自己主張しろ!
って言ってるのではないのね。
(自己主張して相手と対立しろ!ということでは全くないのだ!)
(私はこう思っています。ただ、あなたにそれを押し付けません)
「誤解を解く」に意識を向けないっていうことが
結局は、次のステップへ行く。
続きを読めばそれがわかってくるさ↓
一周回って、誤解が解決!
一見すると、先ほどの説明で、
「」から
外れてしまったように思えるけれど、
あなたがあなたらしさを出していくと、
ほら!
一周回って、
「誤解が無い世界」
にあなたは足を踏み入れる!
あなたがありのままを出していけば、
あなたらしさであることに自分でOKを出していけば、
あなたを誤解したままの人たちは、
誤解したままこの世から消えていなくなることは無いのだけれど、
少なくとも、あなたの周りから去っていく。
がしかし、今度は逆に、
あなたがありのままになればなるほど、
あなたを理解する人が少しずつ増えていく!
あなたを理解する人が周りに増えれば増えるほど、
「誤解」が少なくなっていく!
あなたのそれ、
「わかるぅ!」
といって共感してくれる人ばかりになっていく。
そういう間柄の人に意識を向けて生きいけば、
おのずと「誤解のない世界」を
あなた自身で構築していることになるのだ!
もし仮にね、
あなたを誤解した人たちがあなたと関係を持ち続けたとしても、
そこに意識を向けないし、労力も情熱も向けない。
あなたが意識を向けて見たほうが良いのは、
「あなたと共感・共鳴し合う仲間」なのだ。
もちろん、そこでも100%誤解が無い、
ということはありえないかもしれないけれど、
少なくとも、誤解よりも、
お互いがハッピーな関係のままを過ごせる時間の方が多くなる!
これはね、誤解されちゃうかもしれないからもっと詳しく言うと、
誤解は完璧には消えない。
でも、あなたがありのまま言いたいこと言えて、
共感できる相手なら、
「誤解」に意識を向ける時間より、
「共感」と「楽しさ」に意識を向ける時間が増える、
ってことさ。
つまり、もはやあなたは、
「誤解を解こう」という世界観で生きていない。
問題が起きても、お互いに笑って流せる、
小さいことは気にならなくなる、
ってこと。
ってことは、もはや、誤解は存在しないも同然なのだ。
でももし、あなたが、
「誤解しているアイツを解らせてやる!」
といって、「誤解の世界」に執着し始めると、
あなたは「正論」を探し始める。
すると、あなたは、
「あなたの心が思うこと」を捨てて、
「正論」を正しいものとして、
それにすがり始め、
正論を武器に「誤解する人たち」との
「終わらない戦い」が始まる。
あなたは永遠に「誤解の世界」に留まり続ける。
(あなたが説き伏せた後、次から次へ、また、新しい誤解した世代が現れる)
不毛じゃ!
だからね、
あなたはあなたが
好きな人、
尊敬する人、
あこがれの人、
などなどに意識を向けていこうね。
ゆっくり丁寧な会話と、相手への関心を向けることで、
誤解は減り、素晴らしい関係性を築き上げていく。
そして関係ない人たちのことは、
あんまり意識しないようにね。
疲れちゃうからね。
そういう人との誤解は無理やり解かない。
誤解は誤解のまま。
あなたは堂々とありのままでいいのだ。