自由っつーのはいいよね。
自由に言いたいことを言える。
自由に書きたいことを書く。
自由に描きたいものを描く。
自由に作りたいものを作る。
自由に表現したいことを表現する。
枠が無くて、制限が無くて、
しがらみが無くて、不可能が無くて、
何一つ障害物がない広大な大空を、
思いきり羽を伸ばして飛ぶ鳥のように
自由に振る舞えたらそりゃ、
サイコーだよね☆
精神の自由
精神の自由とは、
とらわれ(枠)がないこと。
精神の自由とは、
奥行の世界へ深く潜るほど、
その自由度が高くなっていく。
奥行の世界の深い部分へアクセスし、
真我と繋がる、心の声を聞く。
そうして表現されたものは、
魂が震えるものに近い。
すばらしい映画も、
面白いゲームもアニメも、
何かしらの作品も、
最初の作品は熱量があって、
面白いのに、
やがて人気が出てきて、
みんなの需要に応えようとして
(売りあげを伸ばそうとして)
2作目、3作目となるほど、
だんだんツマラナイものになってしまう。
(もちろん、すべてではない)
奥行の世界の情熱、
純粋な創作のためのスピリットは
だんだんと消えていき、
その代わりに万人ウケする方程式、
需要を埋めるためのノウハウが育ち、
やがて奥行の世界の魅力は薄れて、
今度は逆に論理的な「アルゴリズム空間」が育っていく。
そして最後には形骸化されて死んでいくか、
あるいは良きモノは、そのまま静かに語り継がれ、伝統化していく。
インフラ化していく。
(マーケットサイクルと一緒)
それが良いとか悪いとか、
どっちが素晴らしいとか、
ダメだとか、そういうことじゃないの
ただ、現実を
ありのままに見ようと
試みたいの
「アーティスト」と言っても、
いろいろな人たちがいる。
「クリエイター」といってもいろいろな人たちがいる。
「好きなことする」と言っても、
いろいろな人たちがいる。
「奥行の世界」を目指す人たちは、
真我とのつながりを大切にしている。
魂が震えたものしか、表現したくないのだ。
「自分が心から好き」じゃなきゃ、そもそもそれをやる意味がない。
よりそっちの傾向の方が「奥行の世界」寄り、と言っていいのかもね。
一方、世の中のほとんど多くのケースは、
「奥行の世界」と相反する「アルゴリズムの世界」
で生きる人たちによって動かされている。
自分の真我から沸き起こる表現ではなく、
自我の部分で他者の表現に共鳴し、
何かの表現をしたり、創作をする。
そしてそれが自動的に
「あらかじめ決められたシナリオ」
でもあるかのように、
だいたい予想可能な形で発展していく。
「1つの何か」に対しての
コピー、からのそのコピーに対しての
新しいコピー、からの・・・
という流れには、時代を超えてまるで
一貫性があるかのような法則性がある。
そしてこのような「アルゴリズム空間」では、
ポピュリズム的な思想がベースにある。
でもたぶん、原始的にいうと、
ポピュリズムなんて言葉ができるよりもずっと前から、
人類は「一人じゃ生きられない」という潜在的な意識が
あったからこそ「みんなの方へ合わせる」という
生存戦略が遺伝子レベルで備わっているのだと思う。
ポピュリズム的な表現をする人間の方が、
この世で圧倒的に多い理由が、
そこに隠されている気がした。
もっかい言うけど、ワタシ、
それが良いとか悪いとか、
どっちが素晴らしいとか、
ダメだとか、そういうことじゃないの
ただ、現実を
ありのままに直視しようと、
試みてるの
奥行の人々
奥行の世界で生きる
ガチめの表現者の人は、
ガチ隠者的な存在。
奥行といっても、
そこには深さがある。
浅めの領域で生きる人もいれば、
めっちゃ深い領域まで潜る人もいる。
そして奥行の世界の深さに
「優劣」を付けること自体
全く意味がない。
どちらが偉い、凄いの話ではない。
それは各個人の問題なのだ。
ワレ、思う。
多くの人々によって作られ、
多くの人々がそこに住む「アルゴリズム空間」においては、
「奥行な世界」に生きる人にとっては、
ときどき息苦しく感じるんじゃないか、
と思うことがある。
ワタシ、別に幽霊とか見えないし、
木や花や動物とお話できないし、
オーラとか見えないけれども、
「アルゴリズム空間」からは決して発生することがない、
「見えない力」を敏感に感じられる人にとっては、
「きっとそーゆー系の人たちにとっては、
ときどき生きるのが苦しいのだろうなぁ」と
勝手に想像してみる。
(実際に本人たちからも話を聞いたことはある)
でもきっとワタシも、
奥行きの世界のことを
別の方法で感じ取ってる。
それは、夕日が美しいことかもしれない。
それは、川の水の音の心地よさかもしれない。
それは、人間関係において、良い部分でも悪い部分でも「繊細さ」が出ることかもしれない。
それは、世の中でバズる前のマニアックな作品を見つけることが割と上手い方じゃね?と思ったりしてるからかもしれない。
奥行の世界の認識の仕方は、
きっと人によって、
それぞれ違うのだと思った
自由と束縛
奥行の世界で生きる人は、
精神的に自由でいたいのだ。
自由に表現したいのだ。
言いたいこと言いたいし、
やりたいことやりたいし、
思うように表現したいのだ
反してポピュリズムの世界の人は、
自由には表現できないのだ。
言いたいことは言えないのだ。
みんなに合わせないといけないのだ。
対して、より奥行寄りな世界が好きな人は、
猫のようにありたいのだ。
精神の自由が必要なのだ。
真我と繋がりたいのだ。
自分の心の声に嘘が付けないのだ。
神さまの存在とか、目に見えない存在を
無視できないのだ。
という相反する2極があって、
そのどこかのポジションに自分がいる。
いくら「奥行の世界が好き」だからと言って、
世捨て人になって、
例えば江戸時代の画家、伊藤若冲みたいに
「山の中で死ぬまで、ずっと好きなことをして一生を終える」
みたいな、ガチレベルの
奥行き大好き隠者になれるか、
っつったら、そりゃ、
そのレベルは無理じゃすわ
だってワタシ、人恋しいですもん。
便利な世の中大好きですもん。
ウーバーをイーツしたいですもん。
第三の道
奥行の世界のことと、
アルゴリズム空間のことと、
そのありのままの様を
どちらも無視せず、
出来るだけ観察し、
ありのままを受け入れようと、
見続けてみた結果、
ワタシ、絶対、
第三の道があると思っとる。
奥行の世界とアルゴリズム空間の両方の行動領域を広げる
よくねぇ、
「バランスだよねぇ」
とかって、ツマらん
こと言う人たちがいるけど、
いろいろな人たちが話す、
そーゆー類の話を聞くたびに、
ワタシ、常々、
心の中でいつもいつも、思ってしまってた。
そりゃ、あたりまえじゃろがヴォケェエ!
(小学生でもわかるわ!!)
わかっとったら、苦労せんわ。
妥協するならもっと早いうちから妥協しとるわ。
(自分の答えが見つからず、イラついた時期もありましたです、はい)
とゆーことを
心のどこかで反芻していた。
別に怒ってないよ。
別に誰も責めてないよ。
誰も自分と共感できることを言ってるような人を見つけられなくて、
壮大なツッコミを入れずにはいられなかったんだ。
ただね、なんかずーっと、
心の中で引っかかってたんだよね。
当たり前の言葉って、
当たり前すぎて、
当たり前を通り越さないと、
うわぁ!って思えないんだよね。
ワタシ、第三の道見えてきた
バランスは確かに大切です。
この世界は二元論宇宙。
陰陽の法則が働き、
どちらも無くてはならない
2つで1つのセットの関係。
光も影も2つで1つ。
だからね、
バランスを取ることは
大切です。
でもねぇ、
ワタシが思うバランスのとり方とは、
ただ単純に妥協点を見つけることじゃなくて、
次元を上げること!
今見ている視点からではなく、
次元の上げて高いところから見る。
ワタシという個人の中に
2極のバランスを保つ、
ということではなく、
ワタシはワタシ以外の誰かの存在が
必要となる、ということ。
(つまり、バランスを取るのはワタシ個人1人じゃなくてよい、ってこと)
自分と他人。
他人=自分。
その大枠で物事考えていかないと、
問題は解決しない。
(より大きな枠組みでバランスを取る)
さすればワタシ、
自分のしたいことができる。
しかしそれだけでは、
裸の太陽みたいな、
無防備な情熱の塊。
なので、
それは、何かしらの器に
載せてゆかねばならんのです。
自分以外の何かしら、という枠の存在に
気づくことから、それは始まるのです。
この世界に存在する器のことです。
それは自分以外の何かに
自分の情熱の塊である「魂」を
預けること、合わせること、
組み込ませること、
などなど、自分という器から
1つ枠を超えた概念が必要なのれす。
そうすれば、
ワタシ自身がバランスを取ることはせず、
ワタシとワタシ以外によって作られた
「大枠」でバランスが取れるのです。
すると、ワタシの中の
精神的な自由度(奥行の世界)は
保たれたまま、ことを成していけるのです。
そんじゃ