人生において、
生涯かけて、
たくさん集めたいもの
自分の脳みその中にある
「記憶の金庫」に
たくさん詰め込みたいもの
死ぬ最後に、それがあれば、
きっと良い気分のまま
この星とお別れができるの
それは
感動☆彡
感慨深い人
「感慨深いワシは、
生涯かけて、毎日せっせと
じゃい!ウケケケ」
検索しても探せないし、
数字で表せないし、
ブランディングされた「コレが感動です!」
という指標もないし、
地図のように座標でも表せないし、
必ずしも他人のお勧めしたものが、
自分にとっても感動するかどうかの基準もない。
つまり、あらゆるアルゴリズムを駆使しても、
どれだけ方程式で「感動する共通項」を見つけようとしても、
どれだけ無理やり「コレが感動です!」と意味付けをしても、
感動を見つけることはできない。
ノウハウやメソッドや方法論で
「感動のありか」を導き出すことも出来ない。
仮に「コレが感動です!」という基準らしいものを
思想やメディアや常識によって人工的に作り上げ、
「感動っぽい」何か幻想のようなものを作り上げたとしても、
それに反応しているときは、
本当の自分、真我の自分じゃなくて、
自我の自分、つまり環境に自動反応している
オートマトン(自動人形)のような自分かもしれない。
(もちろん、人によっては、本当にそれが好き!感動した!って人も中にはいると思う)
ここで言いたいことは、
ポピュリズムがダメということでもないし、
アルゴリズムがダメということでもないし、
自我がダメということでもないし、
自動反応することがダメということでもない。
(別にそれはそれで楽しい世界があるしね)
ただ言いたいことは、
真我でこの世界を見ようと試みるのであれば、
スピリットで深く感じようとするのであれば、
つまり純な目でピュアなハートで
神様の何かしらに接したいと願うのであれば、
それってつまり、
どの本が自分にとって感動するかは、
実際に自分で読んでみないとわからないし、
どの体験が自分にとっては感動するかは、
実際に自分でやってみないとわからない。
ってこと!
焼き鳥にはうるさいひよこ
「炭火焼鳥の良さは、文章じゃ表せないのでしゅ。」
「実際に連れて行って、実際に店ののれんをくぐらせて、
炭火の匂いをかがせてやり、煙と熱気の空気感を肌で感じながら、
食わせてやらんと、分らない世界なのでしゅ」
外の数字、指標、基準、
などに自動反応するのではなくて、
「ワタシの真我はどう思うか?」
ってことさね!
例えば、
「ねえねえ、あの虹、きれいだねぇ!」
ってAさんが感動してたとしても、
果たして自分にとって感動できるかどうか?
それは自分の心しかわからない。
Aさんが偉い人だから、
スゴイ人だから、
大好きな人だから、
虹がキレイな理由を論理的に説明できるから、
Aさんと利害関係があるから、
Aさんになんか悪いから、
だから、それに自動反応して、
自分自身も無理やり
「虹がキレイだ」って心を
合わることじゃないよね?
それは感動じゃないじゃん?w
つまり感動するのに
「理由」なんてないよね!
感動しちゃったものは
感動しちゃったんだから!
感動したヒヨコ
「お空の夕焼けが、なんともエモいでしゅ!」
思わず心が動いちゃったんだ。
それが感動なんだ。
理由なんてないんだ。
感動集めの人生
生涯かけて、
たくさんたくさん
自分の記憶の倉庫に入れておきたいもの
僕にとってそれは、
「感動」
というものなのです
感動。つまり、
「心が動いた瞬間」
をいつまでもとっておきたい、
っていう人間の自我なのさ。
ほんとうのところは、
その瞬間を100%
保存することはできない。
ということはわかってるのだけどもね、
頭の中で、イメージの世界で、
もし「記憶の倉庫」みたいなものがあったら、
あなたは何を入れたい?
僕はね「感動」をたくさん入れたい!
楽しいとか、嬉しいの記憶も
たくさん入れたいね。
きっと近い将来、
人間は「感動集め」に夢中になる時代が来るのだろうなぁ
それは素晴らしいなぁと思うのです
創造も表現もクリエイションも、
「感動したもの」からじゃないと
産めないのです。
イメージ・アイデアなどを
「論理的に生み出す方法」
っていうのもあるけれどさ、
そんなのはもう死んでる細胞なのです。
僕にとってそれはツマラナイもの。
やっぱり、海でその場で釣った、
生の新鮮のお刺身、
うまいよね!!
ガチ馬だよね!
あれと一緒だよね。
感動はその瞬間。
そしてクリエイションは
過去の遺物。
人は感動したその瞬間を
忘れられなくて、
ずっと取っておきたくて、
だから「何かしらのカタチ」として
創造・表現をしてこの世界に残しておかないと
留めておかないと、気が済まない生きものなのです。
ワイは、
「感動屋さん」
という職業があったとしたら、
「それはなんてすばらしい仕事なんだろう」
って思った。
「感動」を集め、
「感動」を調理して、
「何かしらのカタチ」として
この星にまた新しい感動を生み出す。
(感動の連鎖!それはステキな豊かさの循環☆彡)
それは表現かもしれないし、
創造かもしれない。
絵かもしれないし、
音楽かもしれないし、
ポエムかもしれないし、
洋服かもしれないし、
言葉かもしれないし、
映画かもしれないし、
ダンスかもしれないし、
写真かもしれないし、
新しい遊びかもしれないし、
一生懸命何かを頑張ってる姿かもしれないし、
誰かを応援してる美しさかもしれないし、
困っている人を助けている奇麗な心かもしれない。
何かしらの何かしらなのだ。
だからワイは、
自分が生きているこの範囲、
些細な日常の中から、
今日も感動できることを
探し続けるのです。
そんじゃ