夢も目標も幻想。我を捨てあるがままに見ることの大切さ

 

夢を叶えたい

これを達成したい

そうならなくては

 

 

 

本来、

はいらない。

目標も要らない。

目的的に生きること自体が本末転倒となる。

それは本質(あるがまま)を見ることを忘れ、

意味付けをしている状態だ。

 

 

 

我を持っているうちは、

まだ執着している。

 

 

 

 

我を持っているときとは、

どういう状態か?

 

 

 

我を持っているとき、

何かに反発している。

外側に意識が向いている。

何か足りていないことを意味している。

欠乏意識を持ち続けている。

 

 

 

 

「〇〇になりたい」の裏側に

「〇〇にならなくては、ダメだ」

が張り付いている。

 

 

 

「〇〇したい」の後ろに、

「目標の〇〇はスゴイ、好き、カッコいい、素晴らしい。でも、それ以外は嫌、意味ない興味ない。」

が張り付いている。

 

 

 

「〇〇の理想」の反対側に、

「そうなっていない自分はダメ」

も張り付いている。

 

 

 

 

〇✖思考だ。

OR思考だ。

 

 

 

 

この脳内OSの原点にあるのは、

突き詰めていくと「恐怖」だ。

 

 

 

「恐怖」について、

もう数えきれないくらい、

理解を追求し、知識を蓄え、

自分なりに考え、研究し、

発見し、見出し、ブログに書き、

だけども、それはすべて知識や知恵だった。

それらは外側の世界。

外側に意識が向いている。

 

 

 

 

そんなときこそ!

実は一番、自分で自分のことが見えていない

ということ。

 

 

 

 

ああ。「夢目標を追いかける」なんて

一見するとキラキラ輝いた素晴らしいこと

の裏側にも、ひっそりと恐怖が隠されていた!

 

 

 

 

まだまだだ。

自分はまだまだ。

 

 

 

 

だけど、そんな自分すら、

否定しないのだ。

否定するとそれもまた〇✖思考に陥るから。

 

 

 

 

それでいい。

そうなってしまう自分でもいい。

むしろ、それに気づけたこと自体、

かなり大きなこと。

だから自分スゴイってほめてあげる。

 

 

 

 

本来、夢も目標も目的も意味付けも要らない。

ゆえに我が入ることがない。

 

 

 

 

あるがままに見るとき、それは今この瞬間を生きること

 

 

「何かをしたい」

「〇〇をするのが大好き!」

「〇〇を考えるとワクワクする」

 

 

 

好きなこと、やりたいこと、ワクワク、

そんなことを追い求めているとき、

そこに本来、夢も目標も目的も意味付けもない。

 

 

 

そんなことを体でわかっているのは、5才児のおこちゃまさ。

子どもは本当にみんな天才なのだ。

大人はなんでいつもバカな方へ走ってしまうのだ?

(いつもあんなに考えつくしているのに)

 

 

 

 

 

我が入ると叶わない

 

 

 

夢を叶えたくてそれをする

目標を達成したくてそれをする

 

 

 

それはきっと

叶わない。

 

 

 

自力を使い続け、無理やり叶えたところで、

副作用が起こる。

そこにはあまり幸福感はない。

 

 

 

起こってもそれは一時的な達成感。

(人生において持続的に続く幸福感ではない)

 

 

 

だけれども、それを幸福感と勘違いし、

「次はもっともっと」というように

さらに強い刺激を求める。

終わらない連鎖が待っている世界だ。

 

 

だから、意味付けをし、目的的になる。

そしてそれを追い求めること、

それ自体が、本末転倒なのだ。

 

 

 

 

したいからそれをする

 

 

 

あるがままに見る。

今この瞬間を生きる。

おこちゃま状態。

フロー状態。

自動操縦状態。

 

 

 

 

Q. なぜ山を登るのですか?

A. そこに山があるからさ

 

 

 

なーんてことをサラリと

言えちゃう状態こそ、

本来の在り方なのだ。

 

 

 

 

したいからそれをするんだ

 

 

 

それが自然な状態。

ありのままを見ているとき。

 

 

 

それなのに、

その状態に意味付けをし、

コントロールをし始める。

すると、それこそが我なのだ。

 

 

 

ありのままの状態はこれの反対さ。

 

 

 

お腹がすいたらご飯を食べるように、

眠くなったら自然に眠るように、

したくなったらからそれをするのだ。

 

 

 

それが本来の在り方だ。

 

 

 

 

いまのままで十分だった件

 

 

 

我が入っているうちは、

まだまだな自分。

 

 

 

でもそれでもOKさ。

 

 

 

それすらも〇✖でジャッジしない。

 

 

 

〇✖思考でいる限り、

その階段を登っていくことができないからね。

気づきの枠を超えていくことができなくなってしまう。

 

 

 

 

 

だからそれでいいんだ。

そんな自分でOKだ。

すでに大丈夫だ。

 

 

 

そーなんだ。

 

 

 

もう足りているんだ。

今のままで既に大丈夫なんだ。

すでに価値がある。

既に貴重な存在だ。

すでに安心なんだ。

 

 

 

何も不足していない。

なにも欠乏していない。

何も怖がらなくていい。

 

 

 

 

だからこそ、

恐怖がなくなるんだ。

 

 

 

 

今のままでいいし、

本来、今したいと思っているそれをするこに

理由などはないのだ。

 

 

 

それが自然の在り方だ。

それがあるがままを見る状態だ。

 

 

 

フローの中に生き、

流れに身を任せ、

あるがままの状態をその瞬間その瞬間、

受け入れていく。

 

 

 

その過程の中で、

たまたま

夢と思っていたこと、

目標だったこと、

のよなものが、勝手に流れてきた。

気づいたら、小さなことから、

順番に叶っていた。

 

 

 

たまたまだ。

運の流れの中の一部だ。

 

 

 

その流れの中に入ってきた、

夢も目標も評価も豊かさも、

それらは全部、副産物だ。

 

 

 

本来、意識すべきはそっちじゃない。

今この瞬間、「それをしたい」って方に意識を向けるんだ。

あるがままの結果を見て、そのまま受け入れることだ。

 

 

 

そんな状態になるとき

「我」が入る余地なんてない。

 

 

 

 

それでいいんだ。

何もしない。

何も加えない。

何も考えない。

意味付けしない。

 

 

 

それでいい。

それでいい。

 

 

 

 

そんじゃ