何かしたい人は、
「何かをしたい」と思ってる。
「何かになりたい」と思ってる。
何もしない人は、
「何もしたくない」と思っている。
「何かになりたい」と思っていない。
この世界は時間が流れている。
時間がある限り、
何かする人も何もしない人も
「変化」の影響の中に飲み込まれる。
何かする人たちは、
常に動いている。
動きたい。
何かになりたくて、
何かをしたくて、
何かをするのだ。
Aが欲しくて「A」を選んだ人は、
時間の関係上「B」は選べない。
今日のランチはパスタだ!
(だから今日は、中華は食べられない。明日にしよう)
何かする人は、
自分で自分の枠(世界)、
またの名を「セルフイメージ」
を形作っていく。
決定していく。
何かする人は何かになるが、
その代わり、別の何かにはなれない。
(それは時間の関係上、不可能なこともある)
そうやって、選択して、
決定して、自分の「道」
を形作っていく。
何もしない教
何もしない人は、
何もしないが、
やはりこの世界にある
「時間の概念」によって、
何かする人と同様、常に、
変化の影響の中に生きている。
何もしない人は、
何者でもないが、
同時に「何者にもなれる」
という潜在性を持っている
何もしな人は、
何もしたくないが、
同時に「何でもできる」
という潜在性を秘めている。
何もしない人は、
「Aがしたい」「Bが欲しい」
というように、自分で決定をしないから、
選択したことによって捨て去らなければならない
別の世界線「C」とか「D」とかに分岐せず、
あらゆるすべての状態に対して、
常に「重ね合わせの状態」で生きることができる。
宇宙最強のセルフイメージ
だからこそ、
何もしない人は、
「あらゆるすべての可能性」を
同時に重ね合わせの状態で持つことができる。
そしてその「あらゆるすべての可能性」
を1つ1つ作っているのが、
「何かする教」の人たちなのだ。
「Aになりたい」と思った「何かする教」の人が
ある日、この世界にAをもたらした。
「Bが欲しい」と願った「何かする教」の人が、
ある日、この世界にBを生み出した。
可能性AもBもCもDも、、、Nも、
「すべてを受け入れる器」
(宇宙最強のセルフイメージ)を持つことができるのは、
すべてを重ね合わせ状態で持つことができる
「何もしない教」の人である。
これは物理学に例えると、
物質(あるいはエネルギー)と、
物質を「在る」状態でいさせてくれる「空間」
の関係性に等しい。
物質やエネルギーが「何かする教」
空間が「何もしない教」
何かする教は提供し、
何もしない教はこの世界に生まれた
「あらゆるすべての可能性」の受け皿として、
それを受け取るのだ。
あらゆるすべての可能性から、
あらゆるすべてを受け取れる許可を持っているのが
「何もしない教」の人なのだ。
それが宇宙最強のセルフイメージ。
水のごとく形にとらわれず、
収まるべきところへ収まっていく。
そして自信がどうありたいか、それを選ぶことが可能の境地。
「何をして何をしたくない」
「何が好きで、何が嫌い」
あるいは、
「好きなことはないし、何もしたくない」
どの状態であれ、
あなたは選べるのだ。
能力の問題でも、
論理による到達でもなく、
ただただ、これは
「決意」の問題なのだ。
「可能性の海」の中から、
あなたが欲しい状態を決めた後、
その通りの「道」(宇宙)が、そこから
スタートする。
そんじゃ。