意味付けと自動反応と真我から沸き起こる何か

 

 

 

 

僕ら人間は、

自然現象のアレコレに、

なんでもかんでも、

意味を付けたがる

 

 

 

 

意味を付けないときが済まない。

そのままにせずにはいられない。

ふわふわのままじゃ許せない。

 

 

 

 

カチッと決めないと、

僕らは前へ進んでいかれない

 

 

 

 

 

だから意味付けをする。

 

 

 

 

 

これは人間の素晴らしい点でもあり、

そして同時に自らを罠に陥れるものでもある。

諸刃の刃。鬼滅の刃。

 

 

 

 

 

たとえば、

僕らは先の見えない未来の不安に対しても、

「きっと大丈夫!天も味方してくれる」

と思えるからこそ、

前へ進んでいける。

 

 

 

 

でも今度は逆に、

もし何でもかんでも意味付けしてしまうのなら、

それは全てを定義づけ、言葉の枠に収め、

デジタル領域への入れ込んでしまう(ロゴス)

すると自分の行動はすべて自らが作った枠

「プログラム」の中に収まって動かされる、ということになる。

 

 

 

 

つまり、

「自分の本心」から沸き起こるものより、

「プログラム」で決定されたことを選ぶ、

ということ。

 

 

 

 

無常の海の中から、たまたまの

偶然で沸き起こった、その真我の声(あるいはただの自然現象の一瞬の出来後)ではなく、

決定論に従って、あらかじめプログラムされた枠の中の選択

を自動的に選んでいる。

 

 

 

 

 

そんじゃ、そのプログラム(枠)に気づき、

乗り越えていけばいい。

 

 

 

 

でもそうすると今度はまた、

新たなる枠の存在に思い知らされる。

 

 

 

 

 

僕らが自分の行動パターンを

プログラムする上で、

まず初めに僕らはそもそも

オートマトン(自動人形)であるという前提、

これからすべてが始まる。

 

 

 

 

 

僕らが枠をプログラムする際に、

僕らは自分の真我(心の声)を聴いて、

それをくみ取ろうとしている、

と思っている。

 

 

 

 

でも、おそらくその段階よりも

もっと前の段階で、僕らはもっと

大きな罠に陥っている。

 

 

 

 

オートマトン(自動人形)と化した僕らは、

無意識の反応を日々繰り返している。

 

 

 

 

 

それは心の底から沸き起こるものをくみ取っているのではなく、

多くの場合、外の刺激を選択している。

 

 

 

 

 

「なんとなく」の領域でも、

まだまだ浅い部分で僕らは

自動反応をしている。

 

 

 

 

 

「なんとなく」の深い領域の

心の声をくみ取る前に、

どうしても浅い領域の「刺激」に対して

反応してしまう。(自覚しないうち、知らないうちに)

 

 

 

 

 

意味付け(論理思考)には良い面と、悪い面、

両方を同時に持っている。

 

 

 

 

今思ったソレは、今選んだソレは、本当に自分の本意からなのだろうか。

*ただ運ばれていくヒヨコ

 

 

 

 

それともそれは、

実のところは他者の影響に共鳴し、

その判断を決定しているのではないか

 

 

 

 

本当にそれは心の声なのか?

 

 

 

 

 

「今は、なんとなく右へ行ったほうがいい気がする」

「心の声がそう言っている」

 

 

 

 

 

本当にそうなのだろうか?

 

 

 

 

「今ご飯食べたい」は本心なのだろうか?

 

 

 

 

 

たまたまおいしそうなCMを見たから、

食べたくなったのだろうか?

 

 

 

 

それとも時計の針が12時に回ったのを見て、

「食べなきゃ」とプログラムにスイッチが

入っただけなのじゃないだろうか?

 

 

 

 

それとも「今食べないと午後、打ち合わせ行けない」

というプロセスに従って、今の選択の原因となる

行動パターンが動機付けされていないだろうか?

 

 

 

 

本当に本当に、

その思いは本当なのだろうか。

 

 

 

 

 

ときに科学は、その多くの「なんとなく」が

外部刺激に対する自動反応であったことを証明してくれるし、

瞑想は、その感覚が本意ではない偽りであることに気づかせてくれる。

*がしかし科学もまた、完璧ではなく、ある地点から超えていくと、だんだんと証明が難しくなっていくし、瞑想もまた、感覚世界の奥行にゴールがないことに絶望するかもしれない。

 

 

 

 

意味付けした瞬間、

アナログ領域との断絶が始まる。

神的な領域との断絶。

無限領域(アナログ)を無理やり切り取り、有限化する(デジタル化)

流れから個体へ変わる瞬間。

確率波から1つの粒子が観測された瞬間。

 

 

 

 

その瞬間に、

人類は絶対に逃れられない

バイアスという世界へトラップされていく。

 

 

 

 

 

本能の直観と他者に対する自動反応の際どい境目

 

 

 

めっちゃめっちゃ重要なことなんだ

とりあえず、ワタシにとって。

 

 

 

 

ワタシ、もっと研ぎ澄ませたい。

 

 

 

 

ワタシ、もっともっと

宇宙の波のリズムの方へ

近づけたい。

 

 

 

 

真我から発する波、

すなわち本当の意図により近い状態を

汲み取りたい。

 

 

 

 

 

ところが、あるいは、

極めたところで、

本当の本当に中央(真我)が存在するか、

それは永遠の謎になっていく

(「本当」なんて存在しない(のかもしれない)。でも「より本当に近い」は存在する)

絶対はない(かもしれない)が相対だけはある

 

 

 

 

 

だがしかし、少なくとも、

研ぎ澄ませていけば研ぎ澄ませるほど、

「外部のノイズ(外の情報)の刺激に対する自動反応」

この量を少しずつ、減らしていくことができる。

 

 

 

 

 

「宇宙と繋がる」とか言うと

ちょっとふわっとした曖昧な表現

かもしれないけれども、

 

 

 

 

つまり、もし人間に「真の自由意志」があると過程して、

その意志のより強い方を選択し続けることができるか。

そとの刺激に自動反応し、それに意味付けをすることなく、

その深い部分から沸き起こる「好奇心」に気づけるかどうか。

 

 

 

 

 

これが鍵。

(オートマトンから抜け出すための)

 

 

 

 

刺激への自動反応寄りの波じゃなくて、

より自由意志から沸き起こったものを

選択した時に起こる宇宙との共鳴。

 

 

 

 

そーゆー繋がり方。

そーゆー波。

ふわっと軽く。

 

 

 

 

楽の境地。

無邪気領域。

子どもの心。

より自由な表現へ

 

 

 

 

また、心より頭にとらわれてるかも?

楽を思い出そう

楽の渦の中にもっと入っていきたい

 

 

 

そんじゃ