9月24日以降、
人生における
個人的な割と大きな人生における
悩み・不安のようなものから
解消されたワタシは、
今までほとんど味わったことのない
ものすごい安心感を感じた。
それは毎朝、起こった。
布団の中で、
体にまるで羽が生えたように
軽くて心地よい気分。
起き上がって、
その後、生活をしてても、
日中を通して、
ずーっと心に安心感が
芽生えていた。
そしてそんな気分の良さ、
というのは今でも続いているのだけれども、
だけれども、
人間というのは
上手くできているのか、
上手くできていないのか、
完璧じゃないのか、
なんとうか、、、、
悩み不安が消え、
幸福感が続いていたのも束の間、
また新たな悩み不安が出てくる。
もう、個人的に
「あれしたい・ああなりたい・そうじゃなきゃ嫌」
という欲望はほとんど少なくなってきたのだけれども、
(さらっと簡単に書いてるけれど、これって本当にすごい変化!)
でもね、今度は、
個人を超えてもっと広い視野で、
新たなる悩みや不安が出てきてしまった。
それは何かというと、ズバリ、
自分という
「個人を超えた問題」
それは言い換えると、
「みんなの世界」
もうね、僕は、
本音でしか生きられないよ。
そんな体になってしまったのだきっと。
もう自分自身に嘘はつけない。
真我について、
深く知ろうとすればするほど、
自我に対しての「嫌悪感」が湧き起こってきてしまったんだ。
(そんな嫌悪感が一週間くらい続いていた)
この世界の生きづらさ。
この社会の矛盾。
不条理。
不平等。
格差。
競争。
ストレス、暴力、搾取、
恐れ、不安、嘘。
世界中の国や人々が
どのように経済的に繋がって、
どんな風な仕組みで、
どういう風に生きているか、
それをちゃんと知ってるとか、
理解してる人が
どれだけいるのか僕にはわからないし、
僕だってすべてを把握してるわけじゃない。
でもね、
この世界にはたくさんの
大嘘がまかり通ってしまっている。
大嘘だらけなのに、
それを隠して、
ごまかして、
それを見ないようにして、
無いものとして、
そうやって無理やり頑張って生きている
そんな大人たちの世界。
自分の成功だけを見続けて、
外の世界の現実を見ようとしない大人たち。
(いったい、どちらが子どもなのだろうか)
毎日、恐怖のために、欠乏感のために、お金稼ぎに必死になったり、
心を成仏させたいために成功を追いかけるという不毛の時間を消費する行為、
そこにしか目が向かない世界中にいる多くの大人たち。
(*そしてそれは少し前の自分であり、そんな自分に
嫌悪感を抱いてしまって、1週間くらい、すっごいブルーな気持ちになってた)
それをもう、僕は
無視できなくなってしまった。
もう自分自身にもウソが付けない。
真我と繋がれば繋がるほど、
心は清らかになっていく感じはする。
だけれども、その反面、
心に同じ分だけ、
影ができてしまう。
みんなで大嘘をついて、
それをごまかすために、
更に大嘘を塗り固めて、
そうやって世間を騙し、
自分自身を騙し、
天を騙し、
そうやって今の社会を
なんとかかんとか
支えようとしている。
その大嘘の部分を、誰かが指摘しようものなら、
まるで反逆者のような扱いを受けるのではないか、
という恐怖に包まれてしまう。
正しいことを正しいと言えず、
間違っていることを受け入れないといけない風潮は
でも確かにあったりするのだ。
そしてそれは息苦しい。
たとえ指摘したとしても、
「それはあなたの心が問題」と思われるか、
それとも「生きるためには仕方がないこと」と、
身も蓋も、解決も無い「あきらめ」の世界に戻されてしまう。
あるいは「それの何が悪いの?正しいことだよ」と現状を肯定する
「何も知らない人々」や「変わることが怖い人々」など、
多数の意見によって、すべては埋もれてしまう。
「不平不満なんて言っちゃいけない。」
「そりゃ、感謝が足りない」
「そんな不幸そうな方へ意識を向けちゃいけない」
そんな風に言われてみれば、
確かにそれはそれで正しいように思えてくる。
いつも明るい方を見なくてはいけない
この呪いのプログラミングによって、
僕らはまだ二元論の分断された世界に
留まり続ける。
「この世界は豊かだし、
沢山の恩恵があるし、
愛で溢れている。」
それも正しい。
「この世界は醜く歪んできて、
搾取と分断によって支配されていて、
無慈悲である」
それも正しい。
どちらも正しい。
「だから僕らは、自分にとって、
どっちか見たいほうを見ればいい」
わかります。
でも。
本当にそうなのだろうか?
でも、実は、本当は、
第三の道というのもある
二元論を超えて
人が自我によって、
思考をすると、この世界は
歪んだ観測結果(個人による主観)によって、
光と影に分かれる。
光を見続ければ、
光は大きくなる。
影を見続ければ、
影は大きくなる。
だから人々は、
自分が見たいほうを見るし、
信じたいほうを信じる。
たとえば自身の成功や欲望を追うほどに、
その光は増していく。その世界は広がっていく。
では今度は逆に、
影を見続けてみる。
すると今度は、影は増え続ける。
自分が問題や恐れや、悩み不安に
フォーカスを当て続けていれば、
その影は大きくなっていく。
それが「この世界は意識で作られる」
という世界観の根本の考え方。
「じゃあさ、光だけを見続ければいいじゃん!」
本当にそれでいいのだろうか?
光だけを見続けていれば、
それだけでいいのだろうか?
そんなはずはない。
(第三の道があるんだ!)
光も影もどちらも
自我が作り出した幻想。
幻想であるのにもかかわらず、
それを減らそうが増やそうが、
本質的にはすべて幻想なのだ。
0。
影を無視する人は、
光の世界を大きくする。
ゆえに光の世界を大きくしていくかもしれないけれど、
でもね、同時に同じ分だけの影の世界も
その人の世界の中に作られる。
それは具体的に言い換えてみれば、
たとえば自分だけの成功を求める人は、
豊かになれるかもしれないけれど、
それと同じ分量の社会問題、ストレス、
不安恐怖、あらゆる「影の部分」を作り出すので、
それが充満する世界で、その影の部分を意識しながら
生き続けることになる。
それは根本解決ではない気がするよ
(ま、でも、そうしたい人はそうすればいいさ。でも僕は違う世界へ行くよ)
見ることで成仏する
恐怖を消す方法は、
逃げることでも
フタをすることでも、
無視することでもない。
恐怖を消す方法を、
真正面から恐怖を見つめ続ける、
という行為のみなのだ。
一番怖い方法だけど
一番確実な方法なんだ。
怖いけど、見ることで、
やがて少しずつ恐怖は小さくなり、
やがて完全に消える。
そして見ることとは、
関心を寄せる、
ということ。
関心を寄せるとは、
愛に繋がる。
関心をよせらた対象は、
いつしかやがて「愛情を注がれた」
というレベルに達するとき、
その対象物は成仏し、消える。
それが「見る」
(この世界を観測する)
という意味。
「見る」は「愛」
ワタシは無視しない。
この世界の矛盾や不条理を無視せず、
無いモノとせず、
勇気を出して見る。
関心を注ぐ。
ワタシは自分の考えを他人に押し付けない。
他人を変えることはできない。
「世界を変えよう!」と「自我」を暴走させない。
だけども、せめて
自分だけでも、
自分の半径3メートル以内の
手の届く範囲だけでも、
ワタシが生きる世界においては、
「光と影という幻想を生む世界」
ではなく、
そもそもどちらも自我が作り出した幻想であるのだから、
それらを(完全に消すことは無理かもしれないけれども)
出来る限り無くしていく、そんな世界を私は作る。
だから私は
今の社会の影の部分も
無視せずちゃんと見る。
だけども私の意識は、
そっちへ引っ張られない。
そっちの方へ流されない。
「見る」というのは、
「ただありのまま」それを見る、
ということ。
影の部分に対しても、
光の部分に対しても、
個人的な主観によって感情で
良いとか悪いとか、
アレコレ意味付けすることなく、
「ただありのままの現状を受け入れる」
ということ。
そうやってでしか、
この世界を変えていくことはできない。
(もしこの世界の根源が人間の意識によって作られている、という前提が本当であるならばね)
ワタシは見て、
自分の中にある光と影の幻想を
成仏させていく。
そうやってバランスを取っていく。
真我を求めると、
心がすっごい軽くなるし、
ものすごい安心感が心の底から、
ぶわぁって出てくるし、
何よりもすっごい快感に包まれる。
でもね、そういえば、
昔、瞑想修行したときに、
教わったことがあったんだ。
その感覚もまた幻想だって。
そうだった、そうだった、
僕はこの大切な基本的なことを
忘れかけていた。
9月24日以降、
僕は個人的な悩みが消えたと思ったけど、
それはつまり
「真我寄り」になってしまったんだ。
でもそれと同時に、
今度は影の部分が
自分の心の中に炙り出されたんだ
自我の暴走が作り出すこの世界のたくさんの問題、
不完全さ、
社会の不条理さ、
醜さ、
人々の不平等、
格差、
ストレス、
不安、
恐怖、
人々の繋がりの分断、
全てを枠に収める管理、
それらすべてが生み出すあらゆる影の部分、
それらを無視することができなくなってしまって、
そしたらすっごい、
心が悲しい気持ちになってしまって・・・・
もう悲しくて悲しくて・・・
どうすることも出来ない悲しさ。
しかも、僕ですら、
その不条理に加担しながら生きている
(みんな、資本主義という土台に乗って、何かしらこの世界の不条理に加担して生きている)
それをもう僕は無視できない。
見て見ぬふりできない。
この世界で「素晴らしい!」
と思われていることの多くは、
真我側の世界から見ると「邪悪で地獄のような世界」
という180度真逆の世界観になってしまうんだ。
「この世界の素晴らしいもの」
は一見すると、素晴らしいのかもしれないけれど、
それはあくまで光の部分だけで合って、
それにセットで必然的にくっついてくる「影の部分」を見れば、
その「素晴らしいと思われる行為」というのは、
実は裏で数えきれないほどの人間・動物・植物・自然の犠牲によって
成り立っているんだ。
数えきれないほどの競争があって、
搾取があって、
不平等があって、
不条理があって、、、
それを無視して、
「光だけを見ましょう!」
「明るい方だけ選んでいきましょう!」
ということは、僕にはできない。
それだと「光だけの世界」へ行くことはできない
第3の道
自我も真我も結局はバランスの問題なんだ。
自我が無ければ、
やはり僕らは肉体を維持することができない。
この世界で生活すらままならない。
だから、自我も大切なのだけれども、
少なくとも、この世界の影はもう既に、
「幻想である」ということが、
わかりきってることなのだから、
だからこそ僕は、
(少なくとも僕だけでも)
影をちゃんと見る。
見てそして、
成仏させていくんだ。
僕は誰も否定しない。
誰も批判しない。
誰にも押し付けない。
誰にも強要しない。
ただ、自分だけでもいい。
たった一人でもいい。
僕は真我に嘘をつかない。
自分自身に嘘をつかない。
ここ1週間くらい、
僕は悲しみの中にいて、
どうすることも出来なかったのだけど、
今はようやく心が落ち着いてきた。
少しずつ、またいつも通りの
「明るい僕」に戻ってきたの。
人は、
真我寄りでもいけないし、
自我よりでも行けない。
(寄りすぎると生きていけなくなってしまう)
自我が作り出す、夢・目標・成功などは幻だし、
自我が作り出す、不安恐怖悩み問題ストレスも幻。
そして真我が作り出す心地よさ、軽やかさ、快感も幻。
全部、幻。
1週間くらい経って、
ようやく僕の中に
希望の光が見え始める。
この物質世界に生きている以上、
完璧な理想郷へは行けないかもしれないけれど、
今よりもはるかに「素晴らしい世界」
そーゆー世界観を作っていこう、
そう思ったんだ。
(作るというのは、まず最初に「見る」から入るってこと。
少なくとも、僕は影が少ない未来の世界へ向かうよ。)
これは決して、
革命とかそーゆー大それたことじゃなくて、
あくまで個人的なことさ。
僕は人を変えない。
誰にも主張しない。
誰にも押し付けない。
ただ、自分が
「理想に近い在り方で生きる」
と決心すること。
それは言い換えると、
「神さまに、そして自分自身に嘘をつかないで生きる」
ということ。
具体的には、例えばね、
僕は1週間くらい前から、
また昔のようにヴィ―ガンに戻ったんだ。
昔はね、
インドに滞在したことがあって、
その国の文化に心から感心しきってしまった僕は、一時期、
ただ楽しみのためにヴィ―ガンってやつを
1年くらい体験してたんだけど、
(そんで、その後、なんとなく辞めちゃったんだ)
でも今回は、世界の不平等、不条理、
あらゆる問題に加担したくない、
という思いで、また戻ろうと思う。
それから、ちょくちょく
以前からブログに書いていたけれども、
「ただ与え合うだけの世界」を
僕は少しずつ、なんらかの形で
やっていこうと思う。
ただ与え合うだけの世界。
ギブアンドギブの世界。
(従来のギブアンドテイクという取引思考だと、
この世界が光と影の二元論の世界に分断され、双方の幻想を大きくしてしまう。
その幻想が世界中でアレコレの問題を引き起こしているんだ。
だから、未来の世界では、それを辞めて、ただ与え合うだけ。第三の道。)
今の資本主義は、
一部の人だけに富が集中してしまい、
世界中の見えないところで、
実にたくさんの不平等を虐げられている人たちが
山のようにいる、という構造は変わらない。
これは仕組み上、明白なことなのだから、
僕はアフターコロナに向けて、
次のより理想に近い生き方ってやつを、
誰に主張することも無く、
押し付けることも無く、
「ただ自分が好きでやっていきたい」
そう思った次第。
最初は影の部分を見つめ続けているうちに、
すっごく苦しくなっちゃったんだけども、
でも、そんな苦しみもずっとは続かないのさ。
やがてそれらに飽きてくれば、
少しずつ状況も変化していく。
その後、僕はこの第三の道「与え合うだけの経済」
とか「地球にやさしい生き方」とか、
「人々の繋がり重視の世界」とか、
僕の中で、そーゆー希望の光が少しずつ、
見え始めてきたんだ。
とにかく、今の自分はまた
いつも通り明るさを取り戻しつつある。
今の資本主義のシステムとか、貨幣システムはもう、
限界が来てるし、
これ以上、同じことをやっていても続かないし、
究極までやってしまうと、
誰も得しないシナリオになってる。
(次の良い方法を模索せずに、恐怖のために
みんな仕方なく、あきらめて、これに加担し続けているんだ)
でも本当は「方法」じゃない。
これはみんなの心の奥底にある「信念」の問題。
恐怖があるから、この「ぬるま湯」のような仕組みを
手放せないでいる。(今の僕もまだ、完全に手放せない)
*でも、このまま何もしないでいれば、いつの日か、お湯はお水みたいに冷たくなっちゃう。
でもそれは思い込み。
恐怖という観念にとらわれているだけ。
安心さえできれば、世界はおのずと変わっていく。
でも、僕は社会派みたいに難しい言葉だけの
議論の世界で頭カチコチになったり、
何も行動せず絶望したり、
社会に対して愚痴・不平不満を言うような、
そーゆー類の人にはならない。
希望を持って、
たった一人でもいいから、
自分のできる範囲で、
実験的に新しいことをして生きていこうと思った。
そのために「自我」が必要であれば、
僕は自我を大いに活用する。
でもその支配者は「真我」である。
真我と自我が重なったとき、
神さまが自我の動かし方を導いてくれる。
(自我と真我のバランス)
どちらもバランスを保ちながら、
いきなりは難しいかもしれないけれど、
出来る範囲から始めていきたい。
僕はもう未来へ向けて進みだす。
もう過去にはとらわれない。
今まで得てきたものは多かった。
それらに感謝してる。
でも、今まで「必要だ!絶対に得たい!」
と思い込んで得てきたもののほとんどは
実は幻想だった。
本来、要らないものだった。
僕は幻想は全部、手放していくよ。
未来へ向けて先へ行く。
もう戻らない。
希望の光の方へ向かって。
そんじゃ