相反する2つを意識しながら、ゆらいで生きること

 

 

 

 

世界は2元論から脱却できない。

なぜなら1人の人は、1つの瞬間、1つのポジションからでしか、1つのことしか観測できないのだから(意識を向けられないのだから)

 

 

 

 

あのね、最近、また1つ新しい発見をしたの。

 

 

 

 

なんかワタシ、ときどき自分の声が

フリーザっぽくなるときがある、

という疑惑が浮上して、

 

 

 

 

ときどきiphone で自分の声を

確認する、ということを

日々しておりますです。暇です。

 

 

 

 

 

話を戻すけどもね、

この社会はいろいろな人達で

成り立っていて、

 

 

 

 

みんなそれぞれ

いろいろな考えがあって、

ときに、まったく反対の意見を持っている

こともある。

 

 

 

 

 

それは別にそれで

お互い尊重すればいいのだけどもね、

 

 

 

 

困ったことはね、

スゴイ考え方Aと

スゴイ考え方Bがあって、

それがどちらも相反する場合、

 

 

 

 

僕らはどっちを信じればいいの・・・?

といって迷える子羊状態

なってしまうことなんだ。

 

 

 

 

 

 

たとえば、

「神様はいる!」

っていう人がいて、

 

 

 

 

うんにゃ。

この世は無じゃ。

なにもない。

 

 

 

ってう人もいる。

 

 

 

 

真我はある。

神はいる。

イデアはある。

この世界は必然だ。

この世界は1つだ。

世界は意識によって作られる。

 

 

 

それに真っ向から対立するように、

 

 

 

無我しかない。

終わりも存在しない。

何もない。

この世界は偶然だ。

この世界は諸行無常だ。

世界は無為自然だ。我々はその一部でしかない。

 

 

 

 

つって、まったく正反対。

 

 

 

 

一方は、僕ら個人に対し、

エネルギーを与え、

拡大と成長を促す。

信念と理想が生まれ、

エネルギーはそこへ向かって動き出す。

一方方向の動的な概念も産み出す。

 

 

 

 

もう一方は、僕ら個人と個人の境を解体し、

エネルギーを分散させ、

停止と静けさを取り戻す。

冷静さと正確さが生まれ、

静的な静かな水のような流れが生まれるが、

一方方向ではなくあちこちで循環しだす。

 

 

 

 

 

ある人は〇だ!

という。

それは一見正しそうに見える。

 

 

 

 

でもある人は△だ!

という。

それもそれで正しそうに見える。

 

 

 

 

 

でも、きっと

それは観測する場所によって、

正しいか・正しくないか

という相対的な判断が生まれる。

 

 

 

 

 

 

そしてその観測する場所から

1人の人はその1つの瞬間、1つのことしか意識出来ない。

 

 

 

 

〇を見ようとするとき、

同時に△を見れない。

 

 

 

△を見ようとするとき、

同時に〇を見れない。

 

 

 

 

登ろうとするとき、

同時に降りることはできない。

 

 

 

降りようとするとき、

同時に登ることはできない。

 

 

 

 

温度が上がっているとき、

同時に温度は下がらない。

 

 

 

 

温度が下がっているとき、

同時に温度は上がらない。

 

 

 

 

 

一方しか、見れない。

一方しか、観測できない。

一方の側しか、現実化しない。

(その観測する人にとっては)

 

 

 

 

一方が生まれるとき、

同時にもう片方が生まれる。

 

 

 

 

もう片方があるとき、

同時にもう一方がある。

 

 

 

 

2つは1つでセット。

ハッピーセット。

 

 

 

 

 

 

だからなんなの?

 

 

 

 

 

 

何が言いたいの?

 

 

 

 

 

そんでね、

つまりね、

思うことがあるよ

 

 

 

 

 

「ゆらいで生きる」ということ

 

 

 

 

 

この世はもとより

ふわふわしてるんだから、

ふわふわ生きよーぜ

 

 

 

太古の昔より語り継がれし伝説のジェダイの言葉を思い出す

(旅行の旅)

 

 

 

 

ゆらぐことは大切。

なぜなら、1つの側に留まり続けると、

凝る。コリが発生する。

(負荷と言ってもいい)

 

 

 

 

すると、今度は、

コリを解消させるために、

肩をもみもみするの。

 

 

 

つまり、負荷を解消させるために、

偏っていた考え方を

もう片方の相反する別の考えに

寄り戻してみる、ということ。

 

 

 

 

 

 

これをときどき、やることは

体の健康を保つうえでも大切だし、

心の健康を保つうえでも大切。

 

 

 

 

偏ると人は、

ぎこちなさが生まれるし、

やがて負荷は副作用となって、

どこかしらの部分で必ずその作用は

影響を与える。

 

 

 

 

頭が熱くなりすぎたら、

冷静さを取り戻し、周りを見渡すこと。

 

 

 

冷静すぎて何も動けなければ、

熱さ(情熱)を取り戻し、動き出すこと。

 

 

 

信念が強くなりすぎたら一旦手放し、

冷静と正確さに基づく客観性を取り戻すこと。

 

 

 

冷静と正確さに基づく客観性

(データ主義)になりすぎて、不確定で不確実な世界の

様々な事象を選択できなくなってきたら、

信念を取り戻して、自分の考えで行動してみること。

 

 

 

 

エネルギーも富も人も、過度に

一極集中してしまったら、

分散させ、全体に広まるように、

適度に緩和させていくこと。

 

 

 

 

エネルギーも人も資源も分散されすぎて

カオス(無秩序)になっていたら、

一極集中させて、安定・システム・豊かさ

の循環システムを築き上げていくこと。

 

 

 

 

 

そんな感じだよね

 

 

 

イイ感じに、

ゆらいで生きていきたいものです

 

 

 

 

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そんじゃ

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