真我による広がりだけが本物

 

 

 

真我によって

広がるもの、

成長するもの、

大きくなっていくもの、

 

 

 

これだけが真実。

これだけが本物。

 

 

 

 

自我によって、

広げようとするもの、

成長させようとするもの、

大きくなるものは、

 

 

 

すべてニセモノ。

 

 

 

真我によって広がるものは

必然であり、神さまに祝福されたもの。

努力や苦労はいらない

 

 

 

自我によって広げようとするものは、

努力したり、考えたり、

アレコレの苦行が待っている

そして自我による広がりはニセモノを生む。

 

 

 

ニセモノは、

光と影の2つを持つ。

 

 

 

光は「成功」や「豊かさ」や「良い面」を表し、

影は「光を生み出した原因であり、また光の結果、必然的に発生する負の側面」を表す。

 

 

 

それは社会問題で在ったり、

ストレスで在ったり、

不安や悩みや恐れ、

この世のあらゆる問題を引き起こす。

 

 

 

この光と影は相殺すると0にもどる。

まるで質量保存の法則のように、

光の量と影の量の総体は変わらない。

 

 

 

 

何かが増えてもいないし、減ってもいない。

ただ光と影の2つに分断されただけで、

本質は何も変わっていない。

 

 

 

結局相殺できてしまうそれら2つは、

もともとどちらも幻想であった、

ということになる。

 

 

 

でもこの世界は0じゃない。

0になるどころか、

時代を重ねていくごとに、

年々、いろいろなものがこの世界に作られていく。

 

 

 

新しい考え方だったり、

新しい発見だったり、

新しい発目だったり、

新しいものの見方だったり、

新しい仕組みだったり、

あたらしい製品、サービス、

 

 

 

数えたらきりがない。

星の数ほど、

あらゆるものが増えていく。

 

 

 

そして同時に、

社会問題、環境問題、

心の問題、

不安恐怖ストレス、アレコレ、

それらもたくさん増えていく。

 

 

 

 

決して0に戻ることはないが、

「自我」によって生み出された良い面

つまり「光の部分」と、

「自我」によって生み出された悪い面

つまり「影の部分」は

どちらも「幻想」であり、

相殺できる関係であるのだから、

それを数学みたいに共通項をくくって、

要らないもの同士を相殺させていく。

 

 

 

 

すると、その方程式の中に、

「X=●●」という●●の部分。

つまり「最後に残った部分」だけが残る。

 

 

 

この最後に残った部分は「真我によるもの」

である

 

 

 

 

そこには人類共通の「いいね」が隠されている

それは人類共通のゴール「幸福」の欠片のうちの1つなの

 

 

 

真我によって生み出されたものには、

神の息吹「聖霊」が宿る。

 

 

 

「聖霊」などという言い方は、

あくまで例え話だけれども、

(そしてワタシは別に特定の宗教をしていない)

 

 

 

もう少し、より具体的に言えば、

「みんなのいいな」という思いに届いた

「何かしら」はこの世界で必ず実現化していく。

 

 

 

「みんなのいいな」という思いに、

言葉ではなかなかいい表すことは難しいのだけれども、

例えて言えば神的な力「聖霊」のような作用が働く。

 

 

 

そしてこれこそが「真我による広がり」

 

 

 

 

偉くなりたい

すごくなりたい

モテたい

認められたい

もっと得たい

稼ぎたい

 

 

 

これらはすべて「自我」によるもの。

 

 

 

「自我」の力を使って、

アレコレを進めていくことも出来るのだけれども、

結局それは「光」の部分、良い部分を獲得したように見えて、

実はそれと同じ量だけの「影」の部分も作っている。

 

 

 

 

それらは相殺すれば0になるのだから、

幻想であり「ニセモノ」なのだ。

 

 

 

 

それに対し「真我」によるものは、

必然。

それは無為自然。

勝手に広がり、

勝手に成長し、

勝手に実現化する。

 

 

 

それは神様のちから。

 

 

 

 

このブログでは

「真我」に繋がって、

「何かしらの利を得たい」という思いで

書きたいとは思わない。

 

 

 

そーゆー考えの人も来てほしくない。

そーゆー考え方に少し前の自分も陥っていたことがあったけど、

そーゆーのは、今はなんだか「キモチ悪い」

 

 

 

 

ワタシはただ、

つねに幸せでありたい。

 

 

 

ワタシの頭(顕在意識)で考えることは、

どうも、結局は、アレコレ「幻想」を

追い求めてしまう。

 

 

 

そして結局最後は、

時間を無駄にしたり、

幸せを欠いたりしてしまうのであれば、

そんな生き方は見直したほうが良いのだ

 

 

 

 

それに変わって「真我」によるものは、

絶対であり、間違いがない。

 

 

 

 

なぜなら、もしこの世界に

全知全能の神様がいる、と仮定し、

「その神さまがいつも自分を見ているとしたら」

ワタシはどう生きよう。

 

 

 

 

こういう風に考えてみるだけで、

人生観ががらっと一変してしまう。

 

 

 

こういう見方を常日頃から、

忘れずに問いかけ続けていけば、

人生において「間違い」というものを

侵すことはあり得なくなっていく。

 

 

 

なぜなら「神さま」は完璧だから。

 

 

 

迷ったり悩んだりしてるときは、

それは言い換えると「自我」が暴走している。

 

 

 

「神さまだったらこういう場面では、どういう選択をするだろう」

 

 

 

そういう風に考え、そのように振るまうだけで、

人生を間違うことはもうほとんど無くなっていく。

 

 

 

それどころか、

そーゆー風に考え、行動していく癖が、

積み重なっていくほどに、

人生に良い結果ばかりが生まれてくるでしょう。

 

 

 

それが幸せへの道。

 

 

 

真我と繋がって、

何かを得たい、達成させたい、

などとは決して思わない。

 

 

 

それは結局、

真我と繋がっているのじゃなくて、

自我と繋がってる状態なのさw

(好奇心はもってもいいけど、執着は手放したほうが良いんだ)

 

 

 

 

 

健康な体で、美味しいものが食べられて、

生活ができて、

安心な社会で、

そんでもって自分の好きなときに

自分の好きなことができている、

 

 

 

それだけで

ワタシは100%神様に

祝福されている。

そのことに感謝してもしきれない。

 

 

 

もし、それそれ以外を見ようとしたときには、

真我がとのズレが生じ、

また「地獄」のような世界へ陥ってしまう。

 

 

 

「それ以外を見る」

それは「自我」の暴走によるもの。

 

 

 

*ちなみにはワタシは「すべての自我」は悪。

などとは1ミリも思ってないです。

生存本能としての自我を持つことは生きていく上で必須です。

でもそれ以上となると・・・。

それはつまり、光と影の幻想を生むという、

意味のない行為に繋がってしまう

(それは楽しさと虚しさを同時に両方生み出しているようなものだ)

 

 

 

 

で、もちろん、

「あれしたい・これしたい」

という思いはあって当然です。

それは否定せず、肯定しています。

 

 

 

 

でもそれは他者との比較による(自動反応による)ものではなくて、

真我かから沸き起こる「好奇心」だけ。

それ以外の「欲」は結局、幻想を生み続ける。

 

 

 

 

そして話を戻すけども、

運もまた、考える意味がない。

「真我から沸き起こること」以外を求めることが、

無意味で本末転倒であり、もっというと、

残り限られた寿命という財産を削るような行為であり、

時間がモッタイナイ

 

 

 

 

今に感謝して、

死ぬまで悔いの残らないように

生きていきたい。

 

 

 

そう思ったしだい。

 

 

 

真我による広がりだけが「ホンモノ」

自我によって広げるものは「ニセモノ」

 

 

 

ワタシは真我に沿って行きたし、

その結果がたまたまの運によって広がれば、

それはそれで嬉しいけれども、

もし広がらなくても、それはそれでいい。

どちらでもいい。

 

 

 

なぜなら真我と繋がっている以上、

幸せであることには変わりが無いのだから

 

 

 

そんじゃ