観測可能宇宙プログラムの中を泳ぐたった1行の自由なコード。

 

 

 

 

 

僕らは人間。

そんな僕ら人間には耳がある。

そんで耳からは、絶えず外の世界の情報が、

何かしらの「非線形フィルタ」を通して、

予測不可能に入ってくる

 

 

 

 

 

耳の中にある細胞の1つ、

「うずまき管」てきなやつ。

偶然にも自然界の音(倍音構造)とソックリなカタチなの。

もしかして、あるいはこれは、神への道、すなわち、イデアの正体。源。

あるいは別次元からプロットされた「ホワイトホール」なのか。

奥行の世界。

 

 

 

 

 

 

そんでもって、

僕らの耳に入ってきた音に対して、

ある日、人類はこう言った。

その音は「ド」じゃ!

neko

 

 

 

 

そんな宣言をし、ある日人類は、

自然の森の中を自由に駆け回るキャピキャピな若い

「ド」たちを捕まえて、そのまま

おうちへお持ち帰りしてしまった。

 

 

 

 

 

 

そんで、おうちに帰ると、

「ド」が逃げないようにするために、

鳥かごを作って、

 

 

 

 

 

その中に「ド」を入れて、

お水のお皿とか、

ご飯のお皿とか、

くるくる回る遊べるやつとか、

アレコレ、鳥かごの中に入れた。

 

 

 

 

 

そして人類は、

その「ド」を数千年にわたり、

鳥かごの中で代々、飼い続けた。

 

 

 

 

 

 

 

そんで、人類は、

次は「レ」じゃ、

次は「ミ」じゃ。

 

 

 

 

という感じで、どんどん自然界にいる

「レ」とか「ミ」とか様々な音の妖精さんたちを捕まえてきて、

同様におうちへお持ち帰りして、

 

 

 

 

それらも全部、

鳥かごの中に入れてしまった。

(ハーレムじゃい!ハーレムじゃい!)

 

 

 

 

あれよあれよという間に、

人類は、たくさんの「音たち」を捕まえて、

そしてそれらをどんどん鳥かごの中へ入れていった。

 

 

 

 

人類は、大自然の中を自由に飛び回る音たちを、

勝手に分類してしまった。

 

 

 

 

本当はお友だちだった「ド」と「ド卍」は、

無理やり絶縁させられて、だけお持ち帰りされてたが、

ド卍を見た人類は、

 

 

 

 

 

「うわぁ~なんだコイツ・・・!」

「やさぐれてるわぁ」

「コイツはいらね」

 

 

 

 

 

って言われて、

ド卍だけ、

そのまま自然界へ返された。

 

 

 

 

 

卍の友達

「あのさ、そろそろ集会の時間だからよぅ、俺っちもう、帰るで?」

 

 

 

 

 

そんで選ばれた音たちは、

人間の村へ運ばれて、

鳥かごに入れられ、

名前を付けられて、

定義を付けて、

意味を付けて、

番号を付けられ、

末長く飼われ続けた。

 

 

 

 

 

 

次に音たちは点呼されて、

整列させられて、

前へならへをさせられて、

ルールに従って社会生活を送ることを

余儀なくされた。

 

 

 

 

そしたら、やがて、

人類だけが理解できる音たちの

「ルール」ができあがっていった。

 

 

 

 

そんでもって、

このルールから外れた音は、

「きたない」

「音痴」

「ダメ」

という風になんか知らんけど、

怒られるようになってしまった。

 

 

 

 

 

「あ、今、ド卍が出てるわ」

 

 

 

 

 

 

ド・マンジだわそれ!」

 

 

 

 

 

「フランス語では、

ドゥ・マ~ンジだわ!」

「ボンソワ~ル・シルプブレ・イラッシャイマセ~

 

 

 

 

 

 

「それヤヴァイわ」

「きたないわ」

「間違いだわ」

「排除だわ」

 

 

 

 

 

 

 

 

圧倒的「ぴえん」の図

ペンギンさん「ちょっとそれは言いすぎん?」

 

 

 

 

 

 

 

からの

ネコぴえん図。

 

「ちょっとそれ、厳し過ぎニャイ?」

 

 

 

 

 

 

いったい

正しさとはなだろうか。

正解とはなんだろうか。

美しさとは何だろうか。

 

 

 

 

 

 

 

僕らが信じ切っているソレは・・・

 

 

 

 

 

 

それは偽りの姿。

仮の姿。

線形データ。

デジタル化された形式。

作られたもの。

ゆらぎを失ったもの。

 

 

 

 

 

そのでっちあげられたもの。

惑わせるもの。

不完全なるもの。

枠であり、競争と対立構造を生み出すもの。

*互いに争い、競争と対立を生み出したお魚たちのイデア。

 

 

 

 

 

たとえば、音楽の世界では、12音という鳥かご(枠)の中では、

21世紀までの間「ルールの対立と競争」による発展が続いた。その後、エントロピーが最大化し、最後に発展性を失い、死んだ。(ゲームやりつくした感)クラシック音楽が死んだ(伝統芸能化した)理由なのれす。

コレを言い換えると、鳥かごの中にいた「音の妖精さんたち」は、最初は鳥かごの中で楽しくやってたのに、だんだん息苦しくなって、最後はみんな、行き場を失ってストレスで死んでしまったぴえん

時代の変わり目のとき、同じことが別の分野でも次々と起こるじゃろう。by神

(物理空間上のシステム変化は、時間差で遅れて起こる。「破壊と再生の章」)

 

 

 

 

だがしかし、世界はそこで終わらなかった。

 

 

 

 

世界は鳥かごの外へ出てもなお、

地続きでどんどん広がっていた。

 

 

 

 

その鳥かごによって隠されてしまった、

偽物のヴェールを取り剥がし、

本来持っている真の姿を

さらけ出すと・・・

 

 

 

 

 

するとそこにあった

自然界の真の姿は、

丸じゃなくて、

丸っぽい何か(渦巻的なやつ)だった

(このぐるぐるは、自然界に存在する倍音の広がりの図)

 

 

 

 

 

だから本当は、

「これが正しい」はない。

「これが正解」もない。

「美しさの基準」もない。

 

 

 

 

 

どれをとっても、ただ単に「それを選択した」

という事実があるのみ。

(観測者が観測をしたという事実だけがある。そこには何も意味付けがない)

 

 

 

 

 

 

西洋音楽からしたら、

正しいから外れたド卍(ドゥマ~ンジ・ボンソワ~ル・シルブプレ)は

きたない音に聞こえるかもしれない。

 

 

 

 

でもアラビアの音楽から見ると、

そのドともつかない、ド#ともつかない、ド卍は、

何とも微妙でフラジール。それはまるでさりげなく誘惑するような神秘。甘美な音色。

なのかもしれない。

 

 

 

人類が、その選択した何かを

「ド」と読んだり、

「正義」としたり、

「ルール」としたり、

「正しさ」としたり、

 

 

 

 

 

「何かしらの意味付け」をしたのは、いつも人間側だった。

顕在意識側だった

「神よ!」

 

 

 

 

 

がしかし、本来はそこに何の意味もない。

「神よ!っつー夢を見てたわ」

 

 

 

 

*あ、別に「意味付け悪い」とは言ってないよ。

(意味付けはパワーを生むという属性を持つ。)

人類も別に悪とか善とかそーゆーお話でもないよ。

あくまでただのたとえ話ね。

 

 

 

 

 

 

ペンギン

「ド卍かわいそす。ぴえん。」

 

 

 

 

 

 

 

自由とは鳥かごから抜け出すこと

 

 

 

自由とは、鳥かごという名の

「とらわれ」から自由になること。

 

 

 

それは怖がらなくていい。

鳥かごの中の世界を基準にして、

自分自身を評価しなくていい。

鳥かご自体を意識しなくていい。

 

 

 

 

自由に想像できることへの許可。

自由に言えることへの許可。

自由に決断できることへの許可。

自由に行動できることへの許可。

自由に表現できることへの許可。

 

 

 

 

 

波と一体化するとき

 

 

 

鳥かご(枠)の存在を意識しなくなった瞬間、

波との一体化が始まる。

 

 

 

「とらわれ」からの解放が起こり、

波になり、鳥かごから脱出し、

意識は「どこかしら」へ流される。

 

 

 

 

僕は動物と人間の境目の

究極のラインとしての、

この部分だけに意識を向けたい、

と日々、願っている。

 

 

 

 

 

人類は歴史を通して、1つ1つ枠を手放していくが、

心の中にある「渦巻の中心」である特異点

から沸き起こる「なにかしらの存在」

だけは常にそこへフォーカスが向かっている。

 

 

 

 

それはまるで、太陽を仰ぐ植物たちのような関係性なのだ。

あるいはまた「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいている」

かのような「その奥行きのかすかな怪しさ(違和感)」に気づけるかどうか

ここにオートマトン(自動人形)と人間性との境界線があるように思われる。

 

 

 

 

 

そう、そこだけは

人類は手放さないでいる

絶対領域

 

 

 

 

 

もし、この渦巻の中心部を無我とみなし、

渦巻の中心にいつか終わりがくる(あきらめの境地)

するとその瞬間、世界は枠に覆われ、必然の世界が発生し、

人は動物となり、100%純粋なオートマトン(自動人形)へ帰っていく。

環境によって動かされる自然機械の部品の一部となる。

その瞬間、『心』は消滅してしまう。

 

 

 

 

それつまり、言い換えると、

それを選んだ者は、

死への無抵抗を選び、

やがて最後はエントロピー最大に実を任せたまま、

物理空間上から文字通り、消えてしまう。

 

 

 

 

 

がしかし、こうしてなお、

物理空間上から消えずにもなお、

この渦巻の中心に魅せられ、

生き続ける人類たちは、

エントロピーに逆らいながらも、

反発する反重力の力(押し出す力)に逆らいながらも、

不可逆的なホワイトホールの特異点に向かっていく。

 

 

 

 

 

まるで本能のままに川の上流へ登っていく鮭の大群のように、

僕ら人類は運命論に抗い続けるかのように、

エントロピーを乗り越えていくかのように、

歴史を通して、命のバトンを次世代に渡し続け、

情報の保存を行い、世界を更新し続ける。

 

 

 

 

 

それが人間性であり、人類の歴史なのだからこそ、

少なからずとも、僕らの心の片隅に

「中心の存在」(天や神)をどこかで願っているのだ。

「人間界マジ腐ってるわ~」と辟易している乙女(のイデア)は神である父の元へ帰りたがるw

 

 

 

 

 

そしてその神的なもの、

あるいは神秘的なものが隠されている

奥行きの世界

深く深く潜っていく方法は、

波になること。

(レゾナンス・共鳴)

 

 

 

 

 

*例えば、うずまき管が倍音構造と同じカタチなのは、

「形のイデア」が示してくれる「共鳴の方法」なのかもしれない。

*奥行きの世界はフラクタル構造になっている。

 

 

 

 

 

 

共鳴って、断絶された別空間への「コピー・移動」というデジタル的な方法ではなく、

時空の連続性を保ったまま、アナログ空間上で起こる、同一化現象なのだ

(もつれ合いじゃ、そんでもって、マネっ子するの)

*たとえば、本から脳みそへの知識の移動はデジタル的だけども、体験による認識からの理解はアナログ的な共鳴。この2つは完全なる別物。別次元。

「量子もつれ」を起こしたヒヨコ・ザ・エンタングルメント。

 

 

 

 

そしてそのアナログ空間の深いエリアへ、

潜れば潜るほど、「自由」というものさしの

度合いがどんどん広がっていく。

 

 

 

 

なんでもできる、

何しても大丈夫

何も怖くない

 

 

 

 

 

脳みそにセットされた

「とらわれプログラム」を

1つ1つ解除していくとき、

プログラムの中を走っていた処理は行く場所を失い、

四方八方へ流れだす。

 

 

 

 

もし人間が唯一、

中央(天や神や源など)から

人間性を保つための

コントロールを許される領域があるとすれば、

それは「その波がどこへ行きどう変化するのか」

その1点にかかっているように思われる。

 

 

 

 

それ以外に関しては、もはや手放してもいいんじゃないか。

人生という名のプログラムに設定されている全ての定数を変数に置き換えて、

たった1つの自分の大切な1点(真我)だけを「定数」(信念)のまま

持ち続ける。その上でこの世界に存在するもっとも巨大なプログラム

「観測可能宇宙」の海の中で、プログラムコードの1行である

小さな人間としての自分自身は、そのまま

身をゆだね、流されてしまっても良いのではないだろうか。

(観測可能宇宙は時計仕掛けなのだ~。だって観測された瞬間、人間によって、必ず意味付けされてしまうからね。「観測可能」別の言い方を擦ると「認識できる」という範囲。)

 

 

 

 

そんでもって、この「手放し」について言えば、例えば、アダム・スミスの「見えざる手」のような効果が、経済圏の先、抽象度を上げたフィールドでも、同様に起こり得る、と見ることも出来る。

*なぜなら奥行きの世界はフラクタル構造になっているから。

(ちなみに観測可能宇宙とは意識が及ぶスペクトラムのこと)

時計仕掛けの宇宙(アルゴリズム空間)と、宇宙を作る素粒子たち(オートマトン)の図

 

 

 

 

 

するとどうだろう。

この世界の中で巨大な更なる「自由空間」(カラオケちゃうわ)

が発生する。

 

 

 

 

これは言い換えると

自分の意識の中の世界であり、

そっくりそのままセルフイメージの器となる。

 

 

 

 

鳥かごから解放された「意識」は、

まるで二元論にとらわれない自由な振り子のように、

巨大な自由空間(すなわちセルフイメージ)の器の中で、

自由に泳ぎだす。

 

 

 

 

 

(この器はまるで上善如水のように、低き低きへ身を置いていくほど、空間のサイズが拡張されていく)

これぞ「何もしない教」の神秘!

 

 

 

 

 

 

真我が求めなていない道は選択しないし、

真我が求める方向だけ進んでいく。

 

 

 

 

 

↑そう、まるでサイコロを振るように生きるのだ

しかしそれは、自分の浅い部分の自我が振るのではなく、

奥行の方に眠る神である真我がサイコロを振るのだ。

 

 

 

 

だからこそ、僕ら人類がやるべきことは、

神(ぐるぐるの中央)と共鳴し、

同一化すること。

 

 

 

 

本来、

ただそれだけでいいのかもね

シンプルなのかもね

 

 

 

 

 

そんじゃ

 

 

 

 

 

 

 

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