お金は好きなのにお金儲けが嫌いな人が多い理由

 

 

グラサンひよこ

「みなさーん!!!」

 

 

 

 

グラサンひよこ

「元気ですかー!!!」

 

 

 

 

 

たみども「イェーイ!!!」

 

 

 

 

 

グラサンひよこ

「お金好きですかー!!!」

 

 

 

 

 

民ども「イェイイェイイェーイ!!!」

ブブセラブブセラ~♪♪♪

 

 

近所のオッサン「うるせぇ!!!」

 

 

 

 

 

グラサンひよこ

「そんなに好きなら、稼ぐ力を身に付けましょうー!!!」

 

 

 

 

 

 

民ども「!?」

ピタッ!!(静止)

 

 

 

 

 

「寝るっ!」

 

 

 

 

 

たみども「いや、そーゆーのちがう・・・」

 

 

 

 

 

たみども

「そーゆーのじゃないから・・・」

「マジ、ガン萎えだわ」

「テンサゲ↘だわ」

「チルだわ」

 

 

 

「働きたくないでおじゃる」

 

 

 

 

お金は好きだけど、お金を稼ぐことは嫌いな理由

 

 

みんな、それなりに、

お金好きだよね?

 

 

いいんだよ。

 

 

隠さなくていいよ。

 

 

ホントは好きでしょ?

 

 

うんうん。

 

 

 

そんでね、

みーんなみんな、

世界中のみんな、

お金大好きなのさ

(もちろん、例外もいるけどね)

 

 

 

 

お金が空から降ってきたら

そりゃ、大喜びだけれども、

 

 

 

でもでも、

「自分で稼ぐ」となるとさ、

一気にテンション下がるよね??

 

 

 

 

そんでさ、その理由は人それぞれ、

あると思う。

たくさんの人のたくさんの理由が

あると思う。

 

 

 

でもでも、

それらを1つ1つを全部まとめて、

かみ砕いて、ミキサーに入れて、

「ゴリゴリゴリ」ってフル回転で

まぜまぜして、

 

 

 

ドローっとしたジュース状ににして、

それをさ、

コーヒーのフィルターに

一滴、一滴、少しずつ、少しずつ、

「ザ・藤岡弘流★コーヒーの淹れ方」

みたいにさ、

 

 

すこーしずつ、

すこーしずつ、

ちーっとずつ、

ちーっとずつ、

 

 

 

ポタポタポタポタ、

ゆっくり、じっくり、

丁寧にろ過していったら、

 

 

 

最後に、みんなの共通の

「にがみ」成分を見つけたんだ。

 

 

 

 

 

藤岡弘 

( ・ิω・ิ)

「私はね、濃い口なんですよ~」

 

 

 

 

 

お金の話のタブー

 

 

 

お金の話ってさ、

なんだかあんまり、

おおやけにおおっぴろげに、

話せないときがあるよね?

 

 

 

 

関西人

「いや、うち、お金めっちゃ、好きやで~」

 

 

 

 

うん、まあ、

そういう人たちもいるかもしれないけれど、

 

 

 

そーゆー一般的に言われている話のことじゃなくてさ、

もっと具体的な内容の話のとき・・・

 

 

 

たとえばさ、

恋人とラブラブロマンチックな時に、

金利の話とかしないっしょ?

 

 

 

家族団らんでご飯を食べているときに、

お金の話をすると、

怒りだす家とかもあるでしょ?

 

 

 

葬式のときとか、

大切な会議のときとか、

感動ストーリーでみんなが涙うるうるの最中とか、

みんなの心が、何か情熱で動かされて熱くなっているときとか、

 

 

 

まあ、状況はいろいろあるかもだけど、

「あ、ここではお金の話をしてはいけない」

っていう状況って絶対あるじゃん??

 

 

 

 

で、なんで、

お金の話がちょっとしたタブーみたいになっているか、

それの答えはね、

 

 

 

 

藤岡弘 

( ・ิω・ิ)

「ハイッ!藤岡流コーヒーのできあがり。」

「一生懸命、私の命を込めました。」

 

 

(お、重い・・・)

 

 

そうそう、この

「にがみ成分」

が答えなのだ。

 

 

 

 

 

知っているか、

知らないか、

理解しているか、

理解していないか、

経験しているか、

経験していないか、

 

 

 

 

それは、人それぞれ、

経験も人生も違うから、

全然変わってくるけれども、

 

 

 

 

でもねでもね!!!

 

 

 

 

そんな中、そーゆー

あらゆるそれぞれの一切の事情を飛び越えて、

ある程度、みんなの中で、ある種、

1つの共通する思いっつーか、

全員の無意識の下で、

なんとなーく感じていることがある。

 

 

 

 

 

それがこの

「にがみ」成分。

 

 

 

 

藤岡弘 

( ・ิω・ิ)

「みなさん、どーも、世界のFUJIOKAです。」

 

 

 

「お金をただもらう」

だけだったら、うれしいのだけれど、

 

 

 

「稼ぐ」になると、うっすら、

無意識で感じ取っていた

「にがみ」の感覚がじわじわと味をしめて、

表に出始める。

 

 

 

 

 

 

「にがみ」ていったい何者?

 

 

 

この「にがみ」には「奪う」とか「取る」という概念が含まれている。

 

 

 

 

いやいや、ちょっと待てい!

 

 

 

一生懸命働いて、

汗水流して、がんばって、

そうして得たお金には、

「奪う」なんて概念は入っていない。

 

 

 

むしろ、そのお金で

子どもを育て、家族を養い、

生きるために必要な糧となる大切なもの。

愛おしくて美しい世界にすら見える。

 

 

 

 

たしかに、小さな世界の枠で見ると、

そんな「奪う」だなんて、

厳しい感じの概念は入っていない。

 

 

 

 

でもでも、この

「小さな経済圏を見つめるカメラ」

の倍率をどんどん下げて、

拡大して拡大して、

広い視野に広げていくと・・・

 

 

 

 

「小さな美しい労働の世界」

の小さな1つ1つの単位が、

1つ、また1つと繋がり、

だんだんと大きな道になっていく。

 

 

 

 

その道をだどっていくと、

大きな道と大きな道は、また繋がり、

さらに大きな道となっていく。

 

 

 

 

カメラの視野をどんどん拡大し、広い視野で見ていく。

 

 

 

 

するとすべての道は、だんだんと

ある1つの方向へ向かって

繋がっていくことに気が付く。

 

 

 

道と道はどんどん繋がり、

太くなり、大きくなり、

まるで巨大な木の根っこのように

成長していく。

 

 

 

そして、すべての道が、

最後のゴール地点まで到達する。

 

 

 

そこにあったのは、

1つの巨大な世界だった。

 

 

 

 

その小さな木の根っこのような道を通り、

栄養分は、上へ上へ、大きな根っこの道を伝って、

やがて最後に巨大な幹に吸い寄せられる。

 

 

 

 

「奪い合う」世界

 

 

小さな道も大きな道も、木の幹も、

それらは1つのたとえ話。

1つのイメージ。

 

 

 

人によってはぜんぜん、

見え方が違うこともある。

 

 

 

でもでも、

なーんとなく、みんなの心には、

共通して1つの「違和感」が生じている。

 

 

 

それがなんなのか、

それがいったい何者なのか、

 

 

 

 

上手く言語化できない。

上手く説明できない。

 

 

 

 

しかも、

これは言ってはいけないような気がする。

世間にこんなことをいったら、怒られる気がする。

ものすごく批判されるような気がする。

反逆者のような扱いを受けるような気がする。

 

 

 

 

そうやって、違和感の上に、更に

「見えない圧迫感」

が乗っかってくる。

 

 

 

 

やがて、人々は

心を閉ざし、

口をつむぎ、

思考を止め、

与えられた選択肢から

最大限の自由を見出そうとし始める。

 

 

 

そうなるともう、

「違和感」のことは忘れ始める。

 

 

 

そして、この根底に眠っている

「違和感」こそが「奪う」という「にがみ」成分を

みんなの心に連想させている本体。

 

 

 

 

 

もしかしたら、この違和感は

さらに深く探りを入れてみたら、

「罪悪感」というものなのかもしれない。

 

 

 

 

 

みんなが支えている巨大な世界を

悪く言うのは、悪だ。

考えることはタブーだ。

疑問を抱くことは許されない。

 

 

 

だって、みんなが支えているものを壊したら、

大変なことになってしまうじゃないか!(という信念)

 

 

 

それはきっと、

罪悪感に繋がっているのかもしれない。

 

 

 

 

どっかの山の中にリンゴの木が生えている。

その木には、おいしそうなリンゴなっている。

あなたはそれを手でもぎ取る。

特に何にも感じない。

「リンゴおいしそう!」ってそのままもぎ取る。

 

 

 

あなたは、山に入る。

斧をもって、槍をもって、動物を追う。

その手で、獣を殺して、それを家に持ち帰る。

自分が食べるために、食べられるものを得る。

あなたは得て、獣は奪われるのだ。

 

 

 

街に行くと人がいる。家がたくさんある。

とある家族がいる。

彼らはみんな仲良しで、

お父さんは頑張って働いて、お金を得て、

そして家族を養っている。

 

 

 

そして、お隣にはね、私たちと似たような、

同じ家族がいる。

仲の良いお隣さんがいて、その隣にもまたお隣さんがいる。

みんな私たちと同じような家族なのだ。

 

 

 

 

そして、あなたも、仲良しのお隣さんも、

ご近所のあの人も、みんな家の外にでて、

リンゴを取りに行くのだ。

 

 

 

 

数が限られているリンゴを。

(わざと数に限りがあるように調整する仕組みなのさ。この調整機能のおかげで価値が生まれる)

 

 

そして、限られたものを得るのだ。

同時に、限られたものは奪われる対象となるのだ。

私は得て、そして奪われる。あの人は奪われて、そして得る。

私は人間であり獣なのだ。あの人も人間であり獣なのだ。

 

 

 

ここに罪悪感があり、

なかなか言語化できないのかけれども、

なんとなく人々の中で「違和感」を感じるのかもしれない。

 

 

 

 

そして、この違和感を強く感じてしまう人ほど、

「私個人」というよりも「自分は全体の中の一部」

という感覚をもって生きているのかもしれない。

 

 

 

自分もお隣さんも、見知らぬ人も、

すべてひっくるめて、その共同体を

なんとなーく意識しながら生きているのだ。

 

 

 

そんな意識があるから、

「奪う」という「違和感」を

感じざるをえなくなってしまうのだ。

 

 

 

 

もちろん、

世の中には「与える」「幸せにする」

という世界もあるけれども、

「違和感」を感じてしまう人は、

「奪う」の方に気がとられてしまう。

 

 

 

 

 

そして、なぜ「奪う」に気がとられてしまうのかというと、

「この世界は閉じていて、すべてのものには限りがある」

という信念があるように見える(閉鎖系の中の質量保存の法則)

 

 

 

 

「いいや、自分はそんなことを思っていない」

としても、たぶん、無意識でそれか、

あるいは似たようなことを感じてしまう人もいるのかもしれない。

 

 

 

 

 

そして、その信念の先にあるのは、

やっぱり「恐怖」

 

 

ここに行き着いてしまうんだな・・・

 

 

 

 

「お金を稼ぐことに対する抵抗感的なものの根源」

が見えたような気がする。

 

 

 

 

 

ハイッ!!

 

 

 

とゆーことで、ここで、

今日の記事のメインパートは終了!

 

 

 

 

ここから下は、メインじゃないけれど、さらに深く追求していったこと。

つーか、別の記事にまとめたほうがいい感じなのだけど、

もう頭の中でフローしちゃったので、この記事1つにまとめちゃいます↓

 

 

 

 

 

2つの世界

 

個人が恐怖を感じるからそういう社会を見るのか

社会が恐怖だから個人はその世界観に支配されるのか

 

 

この2つの問いは、言うなれば、

「ニワトリと卵」の関係。

 

 

どっちかを論点の「よりどころ」

(スタートポイント)にすることで、

話はそれぞれ、まったく別の方向へ発展していく。

 

 

 

もし、上の2つの考え方のうち、

前者を問題とするなら、

あなたの心を変えることが答え。

 

 

もし、後者を問題とするなら、

あなたの外の世界を変えることが答え。

 

 

 

 

自分自身を観察してみる

 

 

自分のことについて書いてみる。

 

 

 

さきほどの2つの考えのうち、前者なら、自分は常に安心している。

そして、いつも安心していると思っていたけれども、

がしかし、同時に、このような記事を書きだした、

ということは、自分は、後者に意識を向け始めている、

ともいえる。

 

 

 

がしかし、自分は前者を選択し続けることを

決めている。

ときに、心の揺らぎは生じるけどね

 

 

 

 

自分の外の世界を観察してみる

 

 

すごく言いたかったのだけど、

現代の社会って、

「後者」の世界観をベースにした仕組みで

圧倒的だよね?

 

 

 

 

*ちなみに、この話を具体的にすると、

あまり来てほしくない人とか、

あまり漂ってほしくない雰囲気が

このブログに来ちゃいそうだから、

あえて、ぼんやり、抽象度を上げて書きます。

 

 

 

 

(でもでも、きっと、近い将来、いつかの時点で

これ系の話が盛り上がるときが来るんじゃないか、

とうすうす感じる・・・)

 

 

 

 

 

持続可能であること

 

 

そんで、「開放系」(開いた系)

という物理学の世界について。

 

 

 

開放系とは、ざっくりと言うと、

世界は複数あって、エネルギーは世界と世界の間を行き来できる。

そんな感じのシステム。

 

 

このシステムは、

エネルギーは無限なようにも感じるし、

発展性を感じる。

 

 

 

 

 

そんで、もう1つ重要な事実を

言うけれども、先ほどの話に出てきた

「たくさんの道でできた巨大な世界」は、

解放しておらず、閉じている。(閉鎖系)

そのシステム(系)内では、いつか必ずエネルギーのバランスが偏る。

 

 

つまり、エネルギーが流れる方向を、ある地点で変化させないと、

いつか必ず「持続可能でなくなる」ということ。

そして現時点で「持続可能でない」方向へ継続して向かっている。

 

 

 

そして、

「たくさんの道でできた巨大な世界」

の外には、更にでかい、

巨大な巨大な世界がある。

 

 

 

 

「たくさんの道でできた巨大な世界」を1。

「その外にある更に巨大な巨大な世界」を2。

 

 

 

1は、「持続可能な仕組みではない」

(2については、話が長くなるのでまた別の記事で)

 

 

 

 

そんで、

持続しないシステムには、

使用期限がある。

耐用年数がある。

だから、いつか必ず壊れる。

 

 

 

1の世界について言えば、

まだまだその勢いは増加している最中だが、

それが終焉を迎えるときは、そう遠くない未来

にまで近づいてきているかもしれん。

 

 

 

そして、そんな中、既存のシステムとは全く違う、

新しいルールが既に始まっている。

多くの人が気づかないところで、しかし、

確実に小さな小さな波のうねりとして、

その現象は既に発生し始めている。

 

 

 

 

こっちもおすすめ↓

「今あるものを失う恐怖」