知識を手放し体験だけに頼っていく

 

 

知識ってやつは、

いつも僕の邪魔をしてしまう

 

 

 

 

知識ってやつは、

人をおごらせてしまう。

人を偉そうなヤツにしてしまう。

 

 

 

 

何でも知ってて、

何でも理解できて、

何でも結末がわかってしまうなんて、

ネタバレみたいでなんか寂しい感じする

 

 

 

 

知識を得て、自分一人で何でもできちゃう代わりに、

自分の周りに人を寄せ付けなくなってしまい、

他力を知ることのない人生を歩むことになってしまうし、

 

 

 

知識を得て、何でも理解できる代わりに、

自分の人生における「初めての感動」っていう

キラキラした貴重な体験を永遠に失うことになってしまう。

 

 

 

 

始めから知識としてゴールを知ってしまえば、

何かを挑戦をする意味がなくなり、

そのゴールが増えれば増えるほど、

生きることそのものが味気なくなってしまうよ

 

 

 

 

だから知識は僕の邪魔をしてしまうんだ。

 

 

 

この世界を知ろうとするほど、

この世界を知ることができなくなってしまうんだ

それが知識ってヤツの正体なんだ

 

 

 

 

なぜならこの世界は、

本当のところは、

計り知れない存在なのだから。

 

 

 

 

つまり、世界とは・・・

 

 

 

もとよりふわふわしている

 

 

 

だからこそ、

 

 

 

ふわふわをふわふわのまま生きる

 

 

 

 

つまり何も定義しないってことさ

つまり何もわかろうとしないことさ

名前なんて付けないことさ

 

 

 

何も計測しないってことさ

自分の物差しで、自分以外を推し量ろうなどと

愚かな考えを持たないことさ

 

 

 

 

つまりアレコレ理解した上でもなお、

「自分はまだまだ何も知らない」と、

この巨大で深淵なる大自然に対して

謙虚さと畏怖を忘れないってことさ

 

 

 

 

 

ゆがんだ世界

 

 

知識が増えれば増えるほど、

世界が歪みだす

 

 

 

つまり、言い換えると、

自分がこの世界の物事を不正確に認識し始める

(認知にバイアスがかかってくる)

 

 

 

それは例えるなら、

自分が理解したつもりになっている世界そのものが、

どんどん傾きだしたり、

どんどん色や形を変えてしまったり、

どんどん本来の在り方からズレてしまうということ

 

 

 

 

この世界はもとより、

諸行無常とか言われていて、

絶えず変化し続けている。

(この世界は「複雑系」という枠の中で物理法則が働いているんだ)

 

 

 

 

だから固定したモノなんて何もない。

 

 

 

 

知識はただ単に、

過去のある一点を切り取って、

それをまるで「不動のもの」

「永遠不滅のもの」

「受け継がれるべき原理原則」

 

 

 

のように大げさに仕立て上げるのが得意なんだ。

 

 

 

 

だけども「永遠」は幻想だ。

 

 

 

 

世は常に絶え間なく動く。

 

 

 

「指揮する側の考え(知識)」

はいつも間違っていて、

「現場の声(今この瞬間)」は常に正しいのだ。

 

 

 

それってつまるところ、

「今この瞬間に起こっていることがすべて」

 

 

 

 

例外も、

想定外も、

不規則性も、

突然変異も、

不確実性も、

 

 

 

知識だけでは到底、それらの事象を乗り越えられないし、

かえって知識がそれらの事象の真の姿を歪めてしまう。

 

 

 

 

今この瞬間、瞬間の連続性の中で起こるあらゆる事象は、

もう2度と同じ瞬間を再現することができないほど、

ふわふわとした不確実の連続なのだ。

 

 

 

 

それこそが現実

それこそがリアル

 

 

 

 

知識は、今この瞬間に起こる現実を無視し、

過去に起こった出来事を「絶対なる物差し」

として不動の定義とし、

そちらを基準に、今この瞬間をさばこうとする。

 

 

 

 

そこに認知の歪みが発生する。

 

 

 

 

 

自分が観察・体験したことだけ

 

 

 

すべては自分が体験したことだけ。

 

 

それが自分にとっての真実。

 

 

 

 

 

 

 

知識を得て、思考し、アウトプットし、

何か立派なことをしたと勘違いし始める自分。

 

 

 

だがしかし、そこにあるのは

ただの「自動反応」だけなんだ。

 

 

 

自分自身がオートマトン(自動人形)として、

ただ自分が与えられた環境(アルゴリズム空間)に沿って、

自分より上位空間にいる存在(枠の外にいる存在)によって

プログラムされた通りのシナリオを、

自分は自動的に反応し、選択し、表現しているだけに過ぎなかったのだ。

 

 

 

あたかも自分には思考があると勘違いし、

あたかも自分には自由意志があると勘違いし、

オートマトンのようにただ反応を繰り返すだけなのだ。

 

 

 

 

自分に自我があり、渇望があり、

恐怖や不安がある以上、

自分はいつまでたってもプログラムに支配され続けてしまう。

 

 

 

 

だから自分は、このアルゴリズム空間から抜け出し、

知識の檻から自由になり、

自分が感じる感覚に従って目をつぶったまま生きてゆきたい。

 

 

 

 

自分自身が観察したものだけ。

自分自身が体験したものだけ。

 

 

 

 

それだけを信じて、

それだけを頼って生きていく。

 

 

 

だから、これから先、自分は少しずつ知識を捨てていくんだ。

 

 

 

この世界を知るために、

この世界を体験するために、

だから、そうする度に少しずつ、

今まで溜め込んできた知識を開放していくんだ。

鎖から外して、自由な外へ逃がしてあげるんだ。

 

 

 

 

未来が怖くて、

将来が不安で、

先がわからないから必死で、

がんばって集めた証拠たち。

 

 

 

でもそれはただの知識。

 

 

 

それはただのデータ。

 

 

 

つまるところそれは

「過去の一部分を切り取ったも」

のにすぎない。

 

 

 

 

自分は今この瞬間を生きたい。

今この瞬間を観察し、体験したい。

 

 

 

 

それこそが幻想にしろリアルにろ、

自分の中での真実となり続ける。

 

 

 

 

知識を得ることを捨て、

知識を語ることを捨て、

知識で己を見失うことを辞め、

知識で己をおごり高ぶらせることを捨て、

知識によってコントロールされる道から逃れ、

 

 

 

自分が観察したことだけ、

自分が体験をしたことだけを

自分の軸として生きたい。

 

 

 

 

最後は賢者でなく勇者

 

 

もちろん、極論を言ってるわけじゃないよ

 

 

知識は知識として必要なときもある。

 

 

 

たとえばね、

包丁の使い方とか、

火の扱い方とか、

命に係わることとか、

薬の飲み方とか、

車の運転の仕方とか、

そーゆー知識は知識として必要だと思うんだ。

 

 

 

 

でも、必要最低限の知識を覗いて、

あとは知識ではなく、観察・体験のみが

自分を作っていく。

 

 

 

物語を進めるとき、

知識を扱う者「賢者」は絶対に必要な存在。

 

 

 

でもでも、

賢者だけでは絶対に

枠を超えることはできないんだ。

 

 

 

超えられない枠を超えることができるのは、

勇気をもって「超えたい!」

って思って行動ができる「勇者のみ」なんだ。

 

 

 

勇者だけが唯一道を切り開くんだ。

 

 

 

 

賢者も僧侶も妖精も、吟遊詩人も、

なんちゃらかんちゃらも、

道を進んでいく上で、

みんなそれぞれ、絶対に必要な要素だけれども、

 

 

 

勇者以外、どの属性の者も、

誰一人として、ストーリーを

進めることはできないんだ。

 

 

 

 

ストーリーを進めることができる唯一無二の存在が勇者なんだ

 

 

 

 

さあ、賢者モードはそれくらいにして、

勇者として進んでいこう。

 

 

 

知識デブになるより、

体験ヤセになりたい

 

 

 

知識によって作られてしまう認知の歪みを捨て、

自然が見せるありのままの現象を

自らの観察と体験をもって真に受け入れていきたい

 

 

 

 

そしてその受け入れる器を

どんどん自分の中で大きくしていきたい

 

 

 

 

その器こそがそっくりそのまま、

セルフイメージなのさ

 

 

 

 

 

そんじゃ

 

 

 

 

 

 

 

 

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