タマタマを喜ぶ子どもたち、分析する大人たち

 

 

お子さま

「ワーイ、くじ引きで一等賞、

当たった~!!」

 

 

 

 

 

おとな

「まだ全然当たりが出ていないんだよね。そろそろ、誰かが当たりを引くだろうと、思ってたところさ」

 

 

 

たまたまの幸運をよろこぶ子ども(ワーイラッキー!)

たまたまの幸運を分析する大人(まあ、とうぜんだよね)

 

 

 

 

 

 

お子さま

「ワーイ、道端に100円落ちてたー!」

 

 

 

おとな

「ああ、バス停の前にある自動販売機の横に落ちてたのね」

「そりゃ、そこに落ちてることはよくあるものさ」

「みんな急いでるから、あそこでついつい、落としてしまうのさ」

 

 

 

 

たまたまの幸運をよろこぶ子ども(ワクワク脳)

たまたまの幸運を分析する大人(シラケ脳)

 

 

 

 

 

お子さま

「ワーイ、ユーチューブで動画を上げたら、さっそくコメントが付いたー!」

 

 

 

 

おとな

「ああ、それは売名野郎だわ。」

「人様の動画に張り付いて、コメントして、あわよくば、リンクを貼って、そこから自分の動画へ視聴者を誘導しようとしている、ハイエナみたいな奴らだわ。」

「そんな奴らは良くいるのさ。自分の動画を評価してくれたわけじゃないのさ」

 

 

 

 

たまたまの幸運をよろこぶ子ども(幸せな気分)

たまたまの幸運を分析する大人(自ら自分をサゲる)

 

 

 

 

 

お子さま

「ワーイ、インスタしてたら、みんながフォローしてくれてるー♪」

 

 

 

 

おとな

「ああ、それは裏切り野郎だわ。」

「向こうから勝手にフォローしてきて、そんでもって、こっちに『ああ、このままフォローし返さないとなんか悪いな』という罪悪感を持たせて、こちらにもフォローさせる。」

「そんでもって、それをたくさんの人たちに押し付けて、自分のフォロワー数が増えたら、自分は一気にフォロー解除して、あたかも自分だけ『人気者』であるように見せかける、裏切り野郎だわ。」

「そんな奴らは良くいるのさ。自分の写真を評価してくれたわけじゃないのさ」

 

 

 

 

 

たまたまの幸運をよろこぶ子ども(それでもいいじゃないか)

たまたまの幸運を分析する大人(これは当然のことなのだ)

 

 

 

 

分析ばかりしていると、

結果に対して、それが当たり前、

という思考パターンになっていく。

 

 

 

すると、あらゆるすべてが

予定調和の世界。

説明がつく世界。

当たり前の世界。

 

 

 

すると、心の中にあった

ワクワクをどんどん感じられなくなっていく

感動が薄れていく。

感謝の念も薄れていく。

 

 

 

 

 

もちろん、旨く生きていく上で、

分析も大切。

(リスクに合わないようにね)

 

 

 

 

でもでも、

死なないレベルの、

大したことないレベルの、

そーゆー日常的な事に対して、

いちいち分析する方がモッタイナイねぇ

(それをして何を得られるというのだい?)

 

 

 

それよりも、

その些細なレベルを

小さな事象を、

ありきたりな日常を、

 

 

 

感動と喜びとワクワクで

埋めていけばいいのさ

 

 

 

 

そしたら、

余計なことに頭を使う時間が

相対的に減っていく。

 

 

 

 

僕ら大人は、いつだって

余計なことに頭を使って、

余計なコストを問題を生み出し、

それを処理するために、また時間と労力をかけ、

それを一生をぐるぐると繰り返すのだ。

 

 

 

ああなんて、無駄なのだろう。

 

 

 

 

頭を使って効率よくすればするほど、

非効率へ向かって僕ら人類は進みだす。

 

 

 

 

僕らは何のために生まれての?

 

 

 

 

「そりゃ、幸福になるためさ!」

 

 

 

 

幸福は効率では求められないのだ。

 

 

 

心で感じ続けよう。

 

 

 

そんじゃ