心の声のニセモノと本物を見極めていく

 

 

 

心の声、本音、本心、

果たしてそれらは本当に存在するのだろうか。

 

もしあるとして、僕たちは、

それらの存在を認識し、その意味を理解することができるのだろうか。

 

 

 

この夏、だいぶ焼いた黒光りヒヨコ

 

 

 

 

 

あ、今日はパスタな気がする!

絶対パスタにしたら良いことある!

だって心の声がそう言ってるもん。

自分の本当の気持ちだもん。

 

 

 

 

 

はたしてそれは、

心の声なのだろうか?

 

 

 

 

「僕たちはいつもだいたい、機械のように生きている」

 

 

 

 

「パスタ食べたい!」

は本当に心の声なのか。

 

 

 

 

それともそれは、

30分前にたまたま見た

パスタ広告のマーケティングに

見事に引っかかり、無意識のうちに

反応してしまっているだけなのだろうか。

 

 

 

 

あるいは、一週間前に見た映画の中で、

カップルがステキなお店で

おいしそうにパスタを食べているシーンを見て、

それに影響されたのだろうか。

 

 

 

 

あるいは「バスターミナル」という言葉を

たまたま偶然見かけて、なんとなく思い浮かべた

「バスターミナル」という言葉から、脳みそが連想を発展させ

「パスタ」という妄想を引き起こしたからなのだろうか。

 

 

 

 

 

黒豆ヒヨコ

「真実はいつも、1つか2つでしゅ。あるいは3、4つくらい、あるかもワカンネ、、、」

 

 

 

 

 

 

僕たちはオートマトンという名の自動人形である

 

 

 

まず、これを受け入れることから始める。

これの前提を持っているか、いなかで、

たぶん、世界観が大きく変わる。

 

 

 

なぜかというと、

もし自分は機械なんかじゃない、

自分は心があるし自分の考えがある、

と思っていれば、

 

 

 

「それを疑う」

 

 

 

という概念は発生しない。

すると自然が見せる「あるがまま」の世界の状態と、

自分自身の思い込み(フィルター)との

ギャップの差に気づくことは、

おそらく永遠に来ない。

 

 

 

 

 

オートマトン(自動人形)とは、

つまりそれは、

自分の意志があるように思っていても、

実はそれはなくて、本当は、

環境によって、外の情報によって、

誰かとの比較によって、

それに対して「自動反応」している、

という現象。

 

 

 

 

 

まずはそれを疑って見る。

 

 

 

 

そんでもって、

次のステップへ。

 

 

 

 

人間は機械なんかじゃない

 

 

 

うんにゃ、

人間は機械なんかじゃない。

 

 

 

人間には「信じる心」がある。

 

 

 

だからこそ、

「心の声」「神様の導き」

「本音」「本当にやりたいこと」

「本心」「気づかなかった無意識の思い」

 

 

 

などなど、

心の奥底に眠っている、

何かしらの存在に

気が付けるはず。

 

 

 

 

 

でも自分が、

パスタを食べたいのか、

はたまたそれは幻想なのか、

その違いをどうすれば

はっきりわかるようになってくるのだろうか。

 

 

 

 

観察すること

 

 

 

科学者のように、

研究家のように、

学者のように、

 

 

 

自然現象をありのままに

観察することから、

それは始まる。

 

 

 

自分の心を観察し、

そして自分の思い込みを

見つけていくこと。

 

 

 

それは動物のように、

外部の現象に刺激され、

その拍子に自分の脳内の電気信号が発され、

外部に対してただ自動的に反応しただけなのか。

 

 

 

それとも、それに気づいたうえで、

なお、やはり自分は「パスタ食べたい」

と思っているのか。

 

 

 

心の奥行の世界へ

行けば行くほど、

より「本心」に近づいていく

 

 

 

 

 

それでも本心は永遠に来ない!?

 

 

 

 

それでも、本当に「本心」とやらは、

この世に存在するのだろうか。

 

 

 

奥の奥の奥まで行って、

あらゆる思い込み、とらわれに

自分自身で気づいていったとして、

 

 

 

本当に「一番の底」があるのだろうか。

そこへ到達できるのだろうか。

 

 

 

 

それはワタシは分からない。

 

 

 

 

わかってしまったとき、

おそらく絶望が待っているかもしれない。

(結局、中心は存在しなかった。僕らはただの電気信号だった。ただの無機質な原子の集まりだった・・・)

 

 

 

 

わかろうとせず、無我になれたとき、

おそらく史上最高の幸福が訪れるかもしれない。

(真空のように世界へ溶け込み、真我と繋がるのかもしれない)

 

 

 

 

 

相対間の中で生きる

 

 

 

結局、この世界に「絶対」の境地がない。

「絶対」は神さまの領域。

 

 

 

僕らが生きるこの世界において、

僕らは「相対」の中で生きている。

これが「波」のことなのだ。

そしてそれが二元論宇宙なのだ。

 

 

 

 

この上下の状態の中で、

絶対なる「本心」があるかどうかは

分からないのだけれども、

「相対的」に心の奥深くまで繋がった今の自分にとって

「パスタを食べたいと思ってる」という心は、

「以前よりもより本心に近い」「以前より、本心から遠い」

という相対感覚がわかるかもしれない。

 

 

 

 

より自分の心の奥深くまで繋がれた人は、

他人の意図が見えるようになってくる。

(すべてじゃないけどさ)

 

 

 

すると、自分は他人の意図(意識)に

反応してるのか、それとも

自分の心の深い部分でそれを認識し、

自分の思った方を選べているのか、

 

 

 

その違いがだんだん分かってくる。

 

 

 

 

もちろん、すべてじゃないけどさ。

心というのはそもそも、

♡のように決まった固形のカタチをしている、

というよりは、

常に揺れ動いて雲みたいにふわふわして、

形状が定まらない。

 

 

 

 

だから、波なのだ。

相対感覚の中で、

生きていくしかない。

 

 

 

 

この世はもとよりふわふわしてるから、ふわふわ生きようズ

 

 

 

ワイが大好きな

太古より受け継がれし伝説のジェダイ

のお言葉をいつも思い出す。

 

 

 

つーことで、

ワタシは心を更に

整えていくです。

 

 

 

 

そんじゃ