自由と制限、どちらも役割があり大切だから、イイ感じに間をゆらいで生きたい

 

 

 

 

という制限の中に収まることと、

自由開放していくことの

どちらか一方だけを採択し

「極論的な生き方」にならないよう、

イイ感じに揺らいで生きたいものです

 

 

 

 

 

自然はフラクタル構造

 

 

 

あのね、実は、僕らが

日常生活において、たくさんの音を耳にしている。

 

 

スーパーに行言っても、

ファミリーマートに行っても、

テレビを見てもYOUTUBEを見ても、

街中を歩いていても、

 

 

 

実にたくさんの「音楽」が鳴ってるし、

 

 

 

 

それに「踏切の音」

「人の話し声」

「人々が歩く足音」

などなど、もう無数の音に囲まれてる

 

 

 

 

 

 

そんでね、そんな僕らが普段耳にしている

「音楽」のほとんどはね、

「自由の音」じゃないんだ。

 

 

 

 

「自由」という解放された音ではなく

「枠」という「制限された音」

でできているものがほとんどなんだ。

*もちろん「自由な音」も日常にたくさんある。

 

 

 

 

 

この「制限された音楽」とは、

人工的に作られた音楽なんだ。

 

 

 

 

 

それに対して、本来の「自然の音」というのはね、

正式には「倍音」(ばいおん)と呼ばれるもので構成される。

そんで倍音はね、こんな形で、

「カタツムリのぐるぐる渦巻き」みたいに

ミクロな空間へと音が無限に広がっていくの

フラクタル構造↑

 

 

 

 

 

でもね、僕らが普段耳にしている音楽は、

実は「人工的に作られた音」だからね、

「ぐるぐる渦巻き」じゃなくてね、

こんな風にキレイな「丸」に整えられちゃってるの↓

*メモ:音単体でみると1音1音に倍音は含まれています

 

 

 

 

 

 

カタツムリのぐるぐる渦巻きはね、

「倍音」つって、フラクタル構造なの。

 

 

 

 

丸はね「平均律」(へいきんりつ)

つって、循環してるカタチなの。

 

 

 

 

 

でもね「ぐるぐる渦巻型」は

アレコレ不便だからつって、

無理やり、人工的に「丸い形」に整えられちゃった。

 

 

 

 

 

普段、僕らが「音楽」と思っているもののほとんどが、

この人工的に作られた丸い形を元に作られた、

「制限された音楽」なの。

 

 

 

 

 

それに対して、自然な音は枠がないの。

そんでもってね、カタツムリのぐるぐる渦巻みたいに、

フラクタルな構造だからね、

無限に広がっていくの。

*もちろん「ぐるぐる渦巻型の音楽」も少なからず、未だにこの世界には存在はしてますよ

 

 

 

 

 

丸はね、循環する枠なの。

自由じゃないの。制限があるの。

 

 

 

 

 

*この丸の制限(ルール)の中で、

歴史を通して、たくさんの音楽のジャンルが生まれた

 

 

 

 

 

 

人間もフラクタル

 

 

それからね、話は

「音楽」から「生物」へと

大きく変わるけどね、

人間はね、一日のサイクルが

だいたい25.3時間なの。

 

 

 

 

 

 

 

「一日のサイクルが25.3時間?」

「え?どーゆーこと?」

「24時間じゃないの?」

 

 

 

 

 

 

例えばね、もしこの世界に

「時計」も「太陽」もなくて、

あなたは寝たいときに寝て、

起きたいときに起きるとする

 

 

 

 

 

そんな「制限」のない

「自由」な睡眠と起床を繰り返していくと、

だいたい一日、1時間くらい、ズレていくの

 

 

 

 

眠りたくなったら寝て、起きたいときに自然と目ざめる

 

 

 

 

これね、実際に僕がそうなんだよね

そんな生活を続けてたらさ、やっぱり、

少しずつドンドン夜型へズレていくんだw

 

 

 

 

でも、どうやらこれは、

僕だけじゃなくて、生物学的に、

そーゆーパターンがあるみたい

 

 

 

 

そう、1日は24時間という

「丸のサイクル」なのに、

 

 

 

 

 

 

人間の体内時計は、

25.3時間程度で、一日24時間を基準にすると、

少しずつずれていくの。

そう、ぐるぐる渦巻きみたいにね

(個人差はあります。↑あとコレは極論で、太陽と時計を完全になくした場合のズレね。普通はだいたい朝日と共に、24時間ぐらいで戻るけど、やっぱり多少のズレが生じ、調整しなければ、そのままズレは蓄積されるのだ)

 

 

 

 

 

 

 

そういえばさ、惑星のサイクルも、

「完璧な丸」じゃなくて「ぐるぐる渦巻き」

じゃない?

 

 

 

 

だってさ、例えば、地球が太陽の周りを公転する(一周する)

のが365日ぐらいだけどさ、

それは今のところはそうなだけ。

 

 

 

あと何億年とか、何十億年とか、

何百億年とかすると、

365日からどんどんズレていく。

*やがて最後には銀河系の星々はそれぞれがバラバラに散らかっていくのだ

 

 

 

 

 

一見すると、円型のサイクル

のように見えるけど、

実は、少しずつ少しずつ、

ズレている。

 

 

 

 

 

 

だから完璧な円なんて存在しない。

 

 

 

 

 

 

丸とか円とかって、

昔の西洋では「完璧な存在」とされてた。

 

 

 

 

西洋だけじゃなくて、

日本とか、古代の国々でも

丸い太陽が完璧な神様みたいな存在として、

みなされていた。

 

 

 

 

 

そして、きっと丸は「完璧の象徴」なのだと思う。

*または神様の象徴なのかもね。

 

 

 

 

 

 

 

だけども、そんな完璧な丸は、

実はこの世には存在しない。

完璧な丸はきっと、不完全なこの世ではなく、

完璧なあの世の世界にある。もしかしたら、

それは遠く離れたイデアにあるのかもしれない。

 

 

 

 

 

この世界は、完璧な丸のようで、

実はフラクタルな構造になっているように思える。

(証明はきっと未来永劫、誰一人として、できないかもしれない。

だけども、この自然界は実にフラクタルで溢れている)

そう、このアナログデータの世界は、まるで永遠に続く無限空間へ続いているのだ。

 

 

 

 

 

この世は絶えず何かに「定まる」

ということを知らずに「ゆらいでいる」

かのように

振る舞っているのだ

 

 

 

 

 

 

制限と自由の狭間で

 

 

 

そして、この記事では、

そんな哲学的な事を話したいわけでもないし

神学的なことを語りたいわけでもない。

何か1つの事象を取り上げてそれを「信念」(真理)としたいわけでもない。

 

 

 

 

 

現実世界で、地に足を付けて、現実的に生きるうえで、

この「自由」(開放)と「枠」(制限)の

相反する2つを認識し、

自分の中でうまく取り入れて生きていきたい。

そんだけ。

 

 

 

 

 

「枠」(制限)とは、丸い形のイデア。

そしてそれは円のように循環型だから、

エネルギーがその枠の中で留まる。

 

 

 

 

ところが、「自由」(開放)は、

ブラウン運動のようにランダムに

四方八方へ広がっていく。

エネルギーが散漫してしまう。

 

 

 

 

つまり、寝たいときに寝て、

起きたいときに起きてたら、

そりゃ精神的には健康かもしれんけど、

昼夜逆転してしまって、

日常生活でいろいろ不都合がでるよね、

っつーお話(これは1つの例ね)

 

 

 

 

この「ぐるぐる渦巻型」の生き方は、

この世界のあらゆることに当てはめて、

考えることができる。

*あなたにとっては何がソレに当てはまるでしょうか?

 

 

 

 

 

そんで、逆に今度は「サイクル(丸)」が作れると、

それは言い換えると「習慣」という

「1つのパターン」を作り上げる。

 

 

 

 

その1つのパターンにエネルギーを

つぎ込んでいき、毎日、毎日、

ぐるぐると回していくことができる。

 

 

 

 

すると、やがて何かしらの成果物ができあがる。

 

 

 

 

それこそが習慣の力

 

 

 

 

 

がしかし、今度は逆に、

「丸」とか「枠」(制限)だけ

だと、うまくいかなくなる

 

 

 

 

1つのパターンにはまり込んでしまい、

「変わりたい」と思った時に、

その枠から抜け出せなくなる。

 

 

 

 

自分がオートマトン(自動人形)として、

自由意志を無くし、ただ自分より大きな影響力を持つ何かによって、

操られて動かされ続けてしまう。

 

 

 

 

 

だから、カンタンに言うと、

自由過ぎても良くないし、

制限でがんじがらめでも良くないから、

 

 

 

 

 

イイ感じにゆらゆら

生きていこうぜ☆

 

 

 

 

っつーお話でした。

 

 

 

 

 

死んだりズムと生きたリズム

 

 

死んだりズムは、一定的。

パターンとしてできあがっている。

それが繰り返される。

だからこそ予測可能。(未来がわかっちゃう)

必然の世界。

 

 

 

 

生きたリズムは、ときどき「ゆらぐ」

 

 

ずーっと自由気ままに制限なく「ゆらぐ」のではなく、

規則性の中にときどき不規則性が入ってくる。

まるで一定に流れる川の流れの中に、ときどき派生する水の泡のように。

 

 

 

これは読めない。

パターンじゃなくて「パターンっぽい」

規則性じゃなくて「規則性があるっぽい不規則性」

だから、必然の世界にいない。

未来が読めない。

先がわからない。

 

 

 

そこが生命の神秘。

それがおもしろさ。

それがゆらぎ

 

 

 

 

 

 

ゆらぎどきに気づくこと

 

 

同じことをずっとやっていて、

なんかうまくいかないなと感じたら、

それは「ゆらぎ時」かもしれない

 

 

 

そんなとき、それを辞めてみて、

ちょっと違うことを取り入れる

そんなタイミングかもしれない。

 

 

 

 

ちょっと自由に振る舞いすぎていて、

なんだか上手くいかないときは、

それは「ゆらぎ時」かもしれない。

 

 

 

急にパターンを取り入れて、

計画的になって、1つのことを

取り組んで見てもいいのかもしれない。

 

 

 

 

そんな「ゆらぎ時」を

日々、感じて生きたいものです。

 

 

 

 

 

そんじゃ