心の内側で喧嘩する二人の自分と1つのゴール

人の心の中には、実はたくさんのタイプの自分がいて、

それらがみんな仲良しさんだと、

迷いのないまっすぐ清らかな一本の道のように

前へ進んでいくことができる。

がしかし、もし、みんなの仲が悪くて、

いつも喧嘩ばかりしていると、

同じ場所に居続けて、ずーっといがみ合ったまま

平行線のまま、ぐるぐると堂々巡りをしてしまう。

だからね、みんな一緒に仲良く過ごすために、

みんなの思い出を癒していく必要があるんだ

心の気づきについて

最近、また新たなる心に関する気づきを得た。

いままで、かなり自分で自分のことを

癒してきて、

セルフイメージも随分と、

書き変わってきたなぁ、

という感じで、

自分で自分を自覚できるように

なってきたと思っている。

それは例えていうなら、

3年前の自分のことは、

今ならまるで手に取るようにわかるし、

もし3年前の自分と同じような人間が

他にもし、いたとしたら、その人の悩みも

今の自分ならきっと手に取るように理解できる。

どうすればいいかも伝えることができると思う。

そのようなことを自信を持って言える、

ということは、つまり、言い換えると、

自分で自分のことに対する認識が

3年前よりもどんどん深まってきたからなのだと思ふ。

がしかし!

最近になって、新たなる大きな

「自分の盲点」とか「思い込み」

に気づいた。

自分の中にいるたくさんの

「小さなバージョンの自分たち」

の中で、喧嘩をしている者たちがおる。

心の葛藤を探る旅

この小さなバージョンの自分たちの中で起こっている

ちょっとした喧嘩のようなもの、

というのは、実は多くの人の心の中でも

同じようなことが起こっている。

そんで、自分の場合については、

この原因を探ろうとするために、

まず「自分の好きなこと」について

語ることから始めないといけないのだ

僕の好きなことは音楽。

ピアノを弾いたり作曲をしたり、

ときにマニアックな部分にまで深く研究したり、

そーゆーことが大好きなのだ。

このブログを長い間読んでいる人なら、

時折、ブログ記事の中で、僕が音楽やってるとか、

音楽のことをちょくちょく書いていることに

気づいているかもしれない。

(プロフにも書いてあるしね)

きっかけはここから

そんでね、僕は音楽が大好きなの。

僕は音楽が好きで、

好き過ぎて、だから

好きなことしたくて、それが理由で、

好きなことができる自由な時間が欲しくて、

だから、好きな事とは関係ない

ビジネスとか投資の勉強を

最初の頃は、かなりしてたの

もちろん、これが正しい道とは限らない。

人によっては「仕事し続けながら、好きなことをする」

という道を選ぶこともあるだろうし、

自分の好きなことを実現するための道に正解はないと思う。

どれもみんな正しいのだと思う。

でも、僕は、音楽の勉強をしつつも、

合間には、音楽とは全く関係のない、

ビジネスや投資の本を

めっちゃくちゃ読みまくった。

当時の僕には「人に頼る」という選択肢が無かった。

自分で何とかしようとして、考え抜いた結果が、

自分で「音楽活動を支えるための何か」を手に入れよう、

と思っていた。

それがたまたま、ビジネスとか投資の勉強だった。

そんで僕は、今こうして、

めちゃくちゃ小さい規模ながら、

なんとか音楽が自由にできる生活を

手に入れてることができた。

がしかし、本来、僕は、本当に音楽がやりたいので、

この環境が手に入ったとたんに、

「ビジネスとか投資の勉強をしたい」とか、

「もっと拡大したい」「もっと安定させたい」

とかそっちへ意識を向ける気が、萎えてしまった・・・。

そんなことに時間を使うより、

大好きな音楽に時間も情熱もどんどん

注いでいきたい。どうしてもそっちに意識が向いてしまう。

(だって、今まで、ず~っと我慢してきたんだから!)

でもでも、

「音楽をしてなにがやりたいの?」

「音楽をして将来どうなりたいの?」

「ビッグになりたいの?」

「有名になりたいの?」

いやいやいやいや。。。

そーじゃない!

メジャーデビューとか

有名とか、

そーゆーのじゃないんだ

心から音楽が好きな人って、

そーゆーの興味ない人の方が多いよ。

もし有名になりたいとか、

メジャーデビューしたとか、

売れたいとか、

そーゆーのが目的なら、

それは本当は音楽が好きなのではなくて、

心の奥底に「本当の動機」が眠っていて、

それは音楽に替わる「別の何か」なんだ。

それは認められたい、

という「承認欲求」

よりももっともっと奥の深い動機が

隠されていたりするんだ

(それは最後の方でまとめます)

そんで、もちろん、承認欲求を否定しない。

そして、少なくとも誰しも承認欲求はある。

そしてワタシもバリバリ承認欲求の塊のような者です。

純粋に音楽が好きな僕ですら、

「承認欲求」はある。

これはみんな持ってる。

だから普通のこと。

当たり前のこと。

恥ずかしいことでもないし、

人間だもの。

で、僕が言いたいのは、

「承認欲求が悪い」ということではなくて、

自分の中にいる「小さなバージョンの自分たち」

について大切なことを書きたいのだ。

(そんでそれについては最後の方でまとめていきます)

話を戻すと、そんなわけで、

僕は「純粋な遊びとしての音楽」

が好きだったのです。

そんで、あわよくば、

「純粋な遊びとしての音楽」だけをして、

どうにかこうにか、それだけで

生活ができたらいいな。

っていうのがある種、

僕にとっての1つのゴール

なんです。

つまり、

大好きなことをして、自分の作品を生んで、

「それらが好きだ!」って言ってくれる他人がいて、

そーゆー人たちの輪の中だけで人生を生きられたら、

それ以上の幸福はない!

この境地は、

「世間が定義する幻想の評価」

を追い求めて生きるのではなくて、

自分の心の内側から作れる幸福の境地なんだ。

だから、これができたら、

ある意味で人生コンプリート感

近くなるんです。

この状態で生きられると、

幸福度はかなり高くなるんです。

だから僕は、そーゆー世界を重視する

「スピリット」(精神)

を大切にする人たちの世界観がすごく好きなんです!

これは音楽だけじゃないよ

たとえば、遊びにしろ、

スポーツにしろ、

趣味にしろ、

絵を描くにしろ、

まるで5歳の子供たちが

砂場で無邪気に遊ぶような、

目的抜きの純粋なスピリットの世界だけ

そーゆー世界で生きている人たちに

すごくすごーく憧れるんです!

そーゆー人たちの世界が大好きなんです!

コレわかる人いる?

このような世界に入った瞬間、

まるで超仲のいい家族のような安らぎとか、

あるいは、なんか神聖な空間に入ったような安心感とか、

とにかく、言葉では言い表せない「幸福感」のワールドとか、

空気感が知らず知らずのうちに、そーゆーところには

形成されていくんです。

そして「そーゆーものに対するあこがれ」

というのは、大人になるずっと前から、

僕の心には、確かに存在した。

大人になった今、

こうやって文章化して言語化して、

なんとか説明ができるようになったけども、

子どもの頃から、

僕はスピリットを大切にする

あるいはソウルを感じる音楽に

とても惹かれた。

(ジャンルは問わなかった)

逆に「何かの意図」が含まれる

音楽ないし、あらゆるその他のジャンルの作品、

あるいは芸術に対しては

なぜか、それほど心が惹かれなかったの

当時、それがなぜかはよくわからなかった。

「何で自分は、みんなが大好きなものには、そんなに心惹かれなくて、

逆にみんなが興味ないものに、惹かれてしまうんだろう」

そう思って過ごしていた時期もあったけど、

今はこうやって、その理由がはっきりわかる。

僕は「目的」のためのすべての「行為」

に「純」が含まれていない、ということを

当時、理解できなくとも、肌で感じ取っていたのだと思う。

そんで「目的」と「行為」が2つで1つに重なる

「純」の状態のものに、個人的には、

すごく魅力を感じる

ということが分かったのだった

だから、僕が聞く音楽というのは、

メジャーなものは少ないかもしれないけど、

スピリットやソウルが感じられるものとか、

「ああこの人の作品は、絶対に幸福度高いな」という世界とか、が大好きなんだ。

「知る人ぞ知る世界」のモノが多いんだ。

*つまり、大人になっても、いくつになっても、

公園の砂場で遊ぶような感覚で、

純粋に好きなことをしているような人たちの集まりなのさ

「人生コンプリート感」という言葉が自分的にはしっくりくる)

そして、

話が長くなっちゃったけど、

ここからが本題。

自分のことが見えていない

自分の心の中で何かが喧嘩しているとき、

物事が空回りして、

グルグルと同じところ回り続ける。

ないモノに対する渇望。

なれない者に対するあこがれ。

できない事に対する嫉妬。

自分が自分のことを知らないと、

自分の中で起こっている出来事すら

認識できないし、

挙句の果てに、

今の自分が上手くいっていない理由を、

自分の外にある世界の事象にその原因を探り始める。

すると、もう迷宮入りだ。

(変わりたくても変われないのさ)

だから最初に

自分自身を知ること

がめちゃくちゃ大切なんだ。

だけども、自分自身を知ることが

どんなに難しいことか。

だから最初は、

「自分自身を知ろうとする態度」

(つまり「自分のことをもっと知りたい!」という思い)

これがとても大切なんだ。

僕は、おそらく目的達成タイプの人間だ。

昔は、目的を達成するために手段を択ばないタイプだった気がする・・・。

僕の得意分野であり、能力の一つであり、

別に誰に向かって言いたいのではなくて、

自分を知る上での1つの重要な手がかりなんだ。

(ただただ、自分のことをもっと知りたいんだ)

でも、僕はもしかしたら、空回りしているんじゃないだろうか・・・

そこに気づいた気がする。

僕はスピリットの世界の人に

すごくすごくあこがれを持ち続けている。

そーゆー人は、生れながらの天才なんだ。

感受性が豊かで、

瞬時に何かを理解する聡明さを持っていて、

おまけにそれを表現する「霊的なまでの魅力」

を持ち合わせている。

(ここでいう天才とはIQが高いとか、

処理能力が高いとか、そーゆータイプのことではない)

僕が憧れる天才は、努力をしない。

技術的に天才とかそーゆーレベルの話でもない。

最初から完璧に近い存在(技術とか能力の話じゃない)

最初から、不思議な魅力があって、

肉体とか物質の世界の小さな概念にとらわれることなく、

自由に自分を表現できる人たちなんだ。

まるで息をするかのように、自然に自分のことを

上手に魅力的に表現するんだ。

もう、存在自体、自然のゆらぎと

調和がとれていて、その存在自体が美して

(見た目の美しさのことじゃない)

言葉足らずでアレだけども、

なんつーか一言で「魅力的」なんだ。

そーゆー世界の人たちは、

際立って目立つような感じではないし、

表に出てこないのかもしれないけれど、

名もない人から、自分から望まなくとも(結果的に)世界的に有名になってしまった

一流の人まで、いろいろな人がたくさんいて、

知る人ぞ知る世界の中で生き続けているんだ

それに対して、自分はどうだろうか?

自分はどういう人間なのか?

自分で自分のことを解っているのだろうか?

もし、自分が自分のことを知らないと、

人は自分以外の何者かになろうとしてしまう。

これは人間が陥ってしまう悲劇の1つである。

僕はおそらく、本当のところは、

戦略が得意。

抽象と具体を行き来するのが得意。

アルゴリズムや枠を組み立てるのが得意。

空想が得意。

微調整が得意。

逆に僕は、

戦術が苦手。

テキパキ瞬間をさばくのが苦手。

めんどくさがり。

興味ないこと以外は、最後までやり抜かない。

あと他にもたくさんあると思うけど、今はあんまし思いつかない。

自分は自分以外の何かになろうとしていないだろうか?

自分は自分の持つステキな部分にまだまだ気づけていないのではないだろうか?

自分が自分のことを見えていなければ、

自分の居場所がわからないまま、

地図を眺めているようなものだ。

喧嘩する自分

そんなこんなで、

1つ1つ自分を見つめ直していくと、

自分の心の中で、小さなバージョンの自分たちが対立していることに気づく。

1つは、

「純粋な子どもの世界」

(スピリットを大切にする世界)

にあこがれを持つ自分。

2つは、

「幻想に向かって突き進む大人の世界」

(目的を大切にする世界)

を抱いている自分。

そして1つ目の

「純粋な子どもの世界」

を解剖してみると、

そこには

「競争したくない」

という概念が眠っていることに気づく。

これは「幻想に向かって突き進む大人の世界」

に対して反抗している自分がいる

と言うことに気づけた。

そんで、そもそもの話になるのだけれども、

僕が無意識のうちに、スピリット系の音楽や芸術や作品や、

趣味や伝統や遊びをやってる人の世界が

大好きなのは、そこには「競争」が無いからなんだ。

逆に

「ビッグになりたい」

「売れたい」

「有名になりたい」

「評価されたい」

目的ありきの活動をしている芸術やその他の活動に対して、

無意識のうちに、苦しさを抱いていた自分がいた、

ということに気づけたんだ。

これがビジネスだったら、もっともらしい理由だし、

納得がいくし、潔い。

だがしかし「遊び」に対して、

そんな「不純な目的」が垣間見えてしまうと、

途端に萎えてしまうんだ。

(*まるで子どものようにしょんぼりしてしまうんだ)

でもでもでも!

「自分の大好きなことで

好きなように望むような生活をしたい」

という矛盾する自分がいる!

そして、目的ありきで「好きな事」をしようと試みる

「不純の動機」を持った大人たち(矛盾する自分も含め)に対して、

苦しくなる、というのは、

これはこれで、

自分勝手なフィルターがかかっている、

ということなんだ。

だってさ、そもそも、

ココから先のラインが正解で、

ここから後のラインは間違いです。

なーんていう線引きのある枠を

いったい誰が設けることができるのだろう。

そんな枠も線引きも、個人という主体が写しだす

「幻想」に過ぎないのに。

スピリットの世界で純粋に遊ぶ人たちは、

そもそも、そっちへ意識なんて向けていない。

ただただ、砂場で無邪気に遊ぶ子どものように、

自分のしたいことに夢中なだけなんだ。

じゃあなんで、自分は、

フィルターをかけてしまったのだろうか・・・

色眼鏡をかけて、いい悪いを判断する

ジャッジの視点で世界を見てしまったのだろうか・・・?

すごく長くなったけど、

ここから先がラスボスステージです↓

ラスボス「カーチャン」

頑張って努力して競争して、

「なりたい自分にって願望実現する!」

↑これは「幻想を追い求める大人の世界」

に住む人たちの頭の中。

この「目的ありき」のあらゆる活動の

根っこの部分にラスボス「カーチャン」が眠っている。

カーチャン J( ‘ー`)し

「呼んだかい?」

有名になりたい、

売れたい、

儲けたい、

稼ぎたい、

歴史に名を残したい、

スゴイって言われたい、

チヤホヤされたい、

一角の立派な人になりたい、

矛盾する自分も含め、個々人の動機は

人それぞれなのだけども、一言で言うと、

それらは実は、ぜーんぶ、幻想なんだ

本当は本当は、

根っこの部分で、

みんな本当は、

カーチャンに愛されたい。

カーチャン、ほらほら、みてよ!

オラ、こんなに立派になったよ!

偉くなったよ!

稼いだよ!

凄くなったよ!

有名になったよ!

成功したよ!

ほら、だから!

カーチャン、

こんなオラを愛してくれよ!

カーチャン J( ‘ー`)し

「ナンダイそりゃ?」

そんで、自分を癒し、

自分と対話し続けてきた僕は、

そーゆー過去の「がんばる世界」から

抜け出せた、と思い込んでいたんだ

がしかし、それは大きな思い込みだった

実際に僕がたどった道は、

「頑張る世界」を抜け出した後、僕がたどり着いたのは、

真逆の世界「ゆるい世界」だった

そしてゆるい世界に入り、

ジェダイの教えを学んだり、

ゆるいセルフイメージの書き換えを行ってきた。

この真逆の世界では、

競争はしないし、

自我が膨れ上がることも少ない。

だけども、1つ気づいたことは、

自分は、過去の出来事に対して、

反動(逃避)

に近い感覚を抱いている、

ということに気づいた気がする

「競争」については、

もうこのブログでは何度も何度も、

事細かに研究するくらいに

ブログ記事にして書いてきた。

それくらい、自分自身の中では

大きなテーマだった。

そしてすごい気づいたのは、

自分が安心しているとき、

自分は「純粋な子どもの世界」

(スピリットの世界)にいて、

自分の好きなことに熱中・没頭できているので、

「競争の概念」の中に自分はいないということ。

がしかし、自分が何かに心配しているとき、

「競争したくない」という感情に切り替わる。

すると世界がガラリと変わる。

「競争の概念」にとらわれ始める。

数年前に、僕は、

競争・頑張り・努力がある

「幻想を求める大人の世界」

から抜け出し、

その真逆の方向に扉がある

「純粋な子どもの世界」

へ移行したと思っていたが、

めちゃくちゃ大きな気づきとなったのは、

どっちの世界にいても、

ラスボス「カーチャン」の手のひらの上から

抜け出せていない

という、厳しい現実だった。

ということに今更気づけて、

ビックリした。。。。

もちろん、誤解が無いように言うと、

「競争しない純粋なる子どもの世界」

において、安心しているときは、

カーチャンの幻想にとらわれていないんだけども、

「競争しない純粋なる子どもの世界」において、

心配するとき、「競争したくない」

という不安要素が出てくると、

その瞬間、ラスボス・カーチャンが登場する。

そのとき、こういう現象が起こる

競争しないオラだとしでも、

何もできないオラだとして、

へっぽこなオラだとしても、

カーチャン、オラを愛してくれぇ!

これが個人的には

めーっちゃくちゃ大きな気づき!

人はさ、他人のことはよーくわかる癖にさ、

自分自身のことは全然見えていない、

という難しさ・・・

マジで自分で自分のことを知るのって、

難し過ぎる・・・・

がしかし、今日のブログ記事は

自分にとっては、

かなり重要な記事。

そんで、知らないうちに、

純粋な子どもの心を持った自分と、

幻想を追い求める大人の心を持った自分が、

バチバチに戦い合っている

ということに気づけたのだ。

今は「純粋な子どもの心を持った自分」

の方が圧倒的に強いから、

普段は「幻想を追い求める大人な自分」

の存在に気づけなかったのだけれども、

実はまだまだ、自我として

残っていることに気づいた。

で、これ、

「幻想を追い求める大人な自分」

を殺すことが正解じゃなくて、

「あ、そーだよねぇ~」

「やっぱ、そう思っちゃう自分もいるよねぇ」

って言いながら、

「幻想を追い求める大人な自分」を認めて、

受け入れることが大切なの。

そうしないと、自分と自分が仲直りできない。

前へ進めない。

だから、どっちも受け入れるの。

そんで、気づくの。

「あ~、結局、どっちに転んでも、

やっぱり自分はカーチャンが

大好きだったんだぁ!」

な~んだ、結局、

やっぱり自分はいつも1つの方向に向いて

しっかり生きようとしているんだ。

これを知れて、より一層、

自分で自分のことが好きになれた!

あとがき

実は、ここまで辿り着けたのは、

コロナ騒動があったおかげなのだ。

コロナの後、

当初、自分の予定していたことが狂わされて、

途方に暮れていたのだけれども、

それでも「自分が今できることはないだろうか」

と思ってアレコレ模索しているうちに、

どうしても今まで無視していた出来事に

直面せざるを得ない状況に陥り、

すっげー葛藤が起こって、

ものすごく心がジェットコースター並みに

揺さぶられた。

だけども、無視していたことを

逃げずに見続けたら、

自分の心の中の状況が

少しずつ浮き彫りになっていったの

大人っぽい自分を、

「無意識のうちに否定している自分がいる」

っつーことを。

これはたぶん、努力、我慢、頑張りを守り続ける

「頑張る教」から抜け出せた後の、

反動だと思ふ。

いづれにせよ、

このことがわかって

すこし、スッキリした。