目指さない境地と純粋なる遊び

 

夢目標ゴールを捨て、

何も目指さない境地があるとすれば、

そこにはただ「純粋なる遊び」がある

 

 

 

これは言い換えれば

「好きなことの純度」

磨いて磨いて磨きまくった、

 

 

 

最後に残るたった1つのもの

 

 

 

 

「純粋なる遊び」とは

 

 

 

他人の評価はいらないし、

誰に認めてもらうということもないし、

それで豊かになれるかどうか、

なんてそもそも関係ない境地。

 

 

 

 

 

ここは聖域。

聖なる遊び場。

心のサンクチュアリ。

 

 

 

 

 

この聖域に対して、

自我・願望を介入させ、

夢目標ゴールの対象とすると、

 

 

 

 

「好きなことの純度」

濁る・弱まる・熱が冷める

 

 

 

 

そうであるなら、

ここを完全に切り分けよう

と思ったよ

 

 

 

 

僕の中にある情熱、

それは「好きなこと」

 

 

 

 

それを深く深く見ていくと、

だんだんと「好きなこととは何か?」

が見えてくる。

 

 

 

好きなことを2つに分けて考える。

 

 

 

 

1つは「100%純粋な完全なる遊び」

もう1つは「好きなことで誰かに喜ばれること」

 

 

 

 

最初の1つは完全なる理想郷。お花畑の世界。妄想100%。

後の1つ目は、自分以外の世界(他人)など、現実世界との調和がとれている状態。

 

 

 

 

そして、この2つの好きなことを

ピラミッド構造にしてみる

 

 

 

 

ベースが現実世界との調和のとれた世界。

その上に完全なる理想郷のお花畑世界。

 

 

 

 

 

うんにゃ、

「ピラミッド構造化してみる」というのは間違っているかもしれない。

 

 

 

正確に言えば、そもそも最初から、

このような「ピラミッド構造化になっている」

といった方が正解かもしれん

 

 

 

 

昔、好きなことがしたくてもできなくて、

好きな事とは全然カンケーない

嫌な仕事をしていた時代があった。

 

 

 

そしてそれは、

「嫌な仕事をして得たお金のおかげで、

好きなことする趣味にお金を使うことができる」

というピラミッド構造がそこに存在していた。

 

 

 

 

 

だけども、今はこうやって、

ありがたいことに、

ほとんど好きなことばかりできる生き方になってきたけれども、

 

 

 

 

どうやら「好きなこと」の中にも

またこうやって細かく見ていくと、

深い部分でまた「ピラミッド構造化」

しているということに気づく。

 

 

 

 

 

どうやら形而上の世界においても、

世界はフラクタル構造で出来ているようだ

 

 

 

 

この現実世界と言うのは、

自然界においても人間界においても、

フラクタル構造でてきている。

それは既に、物理学的に説明ができること。

 

 

 

 

 

フラクタル構造とは、

例えるならロシア人形のマトリョーシカ

のように大きい形の中に同じ形の小さいバージョンが

組み込まれている「入れ子構造」のこと。

 

 

 

 

そーゆー入れ子構造は、

自然界にたくさん発見できるのだ。

 

 

 

 

たとえば、原子の周りをまわる電子

のようなミクロの世界のモデルは、

同じ形で「太陽の周りをまわる地球」

のように大きいバージョンで表すことができる。

 

 

 

 

フラクタルってそんな感じ

 

 

 

 

でもでも、物質を超えた

形而上の世界においても、

このようなフラクタル構造になっている部分があるのだねぇ

という面白い気づき

 

 

 

 

「好きなこと」「嫌な仕事」

の2重構造と同じように、

 

 

 

好きなことをさらに細かく分解していくと、

そこにもまた「100%ピュアな遊び」と

「好きなことで自分が生かされる世界」

の2つの構造が見出されるという面白い気づき

 

 

 

 

 

で、たいていの場合は、

ピラミッドの下の「好きなことで自分が生かされている世界」

に属する。

 

 

 

とゆーか、ここに属せないと、

死んでしまう。

 

 

 

 

24時間365日、

ご飯も食べず、

おうちにも帰らず、

お風呂にも入らず、

眠りもせず、

 

 

 

ただ公園の砂場で遊び続ける

なんてことはできない。

そんなの続けてたら物理的に死んじゃう。

 

 

 

だから、自分を生かしてくれる

自分以外の他人が介在する

大きな枠組みの世界の存在が必要になってくる。

 

 

 

この2重構造を無視して、

「願望である夢目標ゴール」を

「ピュアな遊びである理想郷」に

 

 

 

無理やり重ね合わせ用とすると

めちゃくちゃ苦しくなる。

自然の摂理に反している。

つーか、ムリゲーであることに気づく。

 

 

 

 

目指さない境地

 

 

そこで必要になってくるのがこの

目指さない境地。

 

 

 

自分の理想郷を作ることは、

もう100%趣味の自己満の領域

と思ってた方が心がかなり楽。

 

 

 

認められるためじゃなくて、

もう「100%俺得」の世界。

もう自分だけの世界。

 

 

 

誰も中に入れる気はない。

誰にも理解されなくていい。

 

 

 

 

その上で!

 

 

 

 

やはり、この世界は二元論的な構造で出来ているのだから、

一方に偏ると「ゆらぎ」が消え、

人生にいろいろ負荷がかかってくる。

 

 

 

 

だから、その上で!

もう片方の存在の大切さにも

気づいたほうが気が楽になるよ

 

 

 

そう、そのもう片方の世界とは、

「自分を存在させてくれる他人のいる世界」

外の世界。

他人軸。

 

 

 

ここと自分の世界を完全に切り分けるのだ。

 

 

 

じゃないと、

ハチャメチャに苦しくなっちゃう。

 

 

 

(このブログ記事は、

ビジネス向けではありません。

どっちかというと0からのレベルでクリエイトする人向けです)

 

 

 

自分のこだわり・理想・世界観

この1つの世界を作りつつ、

 

 

 

 

もう1つの世界

つまり言い換えると

「自分の好きなことで人を喜ばせる世界」

も作り上げていくこと。

 

 

 

 

この2つの違いに気づかなかったリ、

そもそも混同して1つに考えていると、

めっちゃ苦しくなるし、いろいろなことが

ムリゲーのようになって、

あらゆることが上手く回らない。

 

 

 

 

「自分のこだわり・理想・世界観の世界」

に対しては他人の評価は要らないのだから、

最初からそんなことで悩まなくていいし、

 

 

 

 

「自分の好きなことで誰かを助けたり

幸せにできる世界」

においては、他人の反応を見ながら、

そっちに合わせていくのだ

(ビジネス的な考え方)

 

 

 

 

そんで、この2つのうち、

ピラミッドの下の方の世界を先に満たしたほうが、

徐々に上の世界も構築されていきやすいし、

また「あなただけの理想郷」に魅せられた

「あなた以外の人」も少しずつ増えていく。

 

 

 

 

 

いきなり理想郷のゴールを目指すことは

ムリゲーに近いけど、

目指さないで目の前の人を喜ばせると

逆に目指していた場所に行きやすい、

というおもしろ現象。

 

 

 

 

ただ、ピラミッドの下の方ばかりに意識が向くと、

クリエイティブな創造性は下がるし、

0から生み出したい人には難しいのはわかる

 

 

 

 

だからこそ「ゆらぎ」のバランスが大事。

 

 

 

ピラミッドの上の理想郷の畑を耕しつつ、

ピラミッドの下の現実の畑を耕す。

 

 

 

 

 

だけどもこの2つをごっちゃにしない。

完全に切り分ける。

合わせるとどちらかが破綻する(好きなこと純度が濁る)

 

 

 

まるで機械の部品のように、

1つ1つの概念に、それぞれの役割がある。

 

 

 

これを分けて、

プロセスのように

アルゴリズムのように

動かしていく。

 

 

 

 

この世界は二元論的にできている。

それは仕方がない。

そこはもう認めるしかない。

自然が見せる残酷なまでの「あるがまま」を

僕らは怖がらずに、逃げずに、

ちゃんと対面して、それを観測し、ありのままに受け入れていくしかない。

 

 

 

 

 

その上で、二元論的な構造でできているこの現実世界において、

そこに生きる僕らは、相反する2つの概念のうち、

どちらか1つだけに偏ると

人生がハードモードになりやすいし、

あまりに突き進んでしまうと、

「偏狭な狂人たちが住まう世界」へ

足踏み入れることになりかねない。

 

 

 

 

 

だけども、相反する2つの概念を

交互に一歩ずつ階段を上がるように

登っていくことは「ゆらぎのある健全なるバランス感覚」

のようになっていく

 

 

 

 

どちらも大切。

片方だけじゃない。

片方がもう片方を生かしているんだ。

 

 

 

考え方もそう。

自分以外の他人もそう。

 

 

 

全部、どっちも切り離せないんだ。

 

 

 

だから、どっちも受け入れて

生きていこうと思った

 

 

 

そんじゃ