自分の考えを手放し自分を通して創造・表現すること

 

 

自分の中に長年かけて溜め込んできた、

外からの得た知識で何かを創造し、表現する。

 

 

 

 

それはそれで大切かもしれないけれども、

それはまるで、部屋の中のモノを

A地点からB地点へ置くような行為に似ている。

 

 

 

 

それは、部屋の中に新しいモノを取り入れたのではなく、

部屋の隅にあった花瓶を、出窓の窓際に移動しただけ

なのかもしれない。

 

 

 

 

それは部屋の隅にあった物体Aを

部屋の中央に移動させただけなのかもしれない。

 

 

 

部屋の中に、今までなかった物体Bという

新しい存在を、部屋の外から取り入れること。

 

 

 

 

それが新しく創造するということ。

それが新しく表現するということ。

 

 

 

 

 

 

それを行うためには、僕らは、

外から知識を蓄えることばかりに

意識を向けることを辞めて、

自分の内側から何かを「召喚」するということが

大切になってくる

 

 

 

 

 

知識は死。

 

 

 

 

知識はすでに「ある」存在。

この世に出回っている。

 

 

 

「何かを知った!」

「新しいことを知った!」

 

 

 

というのは、ワタシだけの現象。

その知識(データ)はこの巨大なアルゴリズム空間(地球)

の中に既に備わっている。

 

 

 

 

それをワタシが手に入れようが、

別のAさんが手に入れようが、

Bさんが手に入れようが、

 

 

 

 

地球の視点から見れば、

誰でもいい。

 

 

 

 

この巨大な部屋(地球)の中にあるデータが、

ワタシからAさんへ移動しただけ。

AさんからBさんへ移動しただけ。

 

 

 

 

つまり、地球視点から見たら、

何も変化していない。

 

 

 

 

 

知識は死(すでにあるもの)

 

 

 

そして、

生は直観から起こる。

 

 

 

 

直観は誕生。

 

 

 

僕らは、この大自然という大いなる機械(システム)

の中で、自由意志を持たないオートマトン(自動人形)として

自動的に動かされている。

 

 

 

僕らが自由意志を持たないオートマトンであるとき、

僕らはなにも産み出せない。

 

 

 

オートマトンは、自動的に

「外部環境から自分の体内(脳)に

知識(データ)をかき集める」

という作業を死ぬまで永遠に行っている。

 

 

 

 

それは地球を動かすために

あらかじめ組み込まれている

全体プログラムの小さな1つの行動パターンに過ぎない。

 

 

 

 

そして、その行為自体を効率化するために、

僕ら人類は歴史を通して、

「発明」という行為を行ってきた。

 

 

 

 

そして、自分たちの生活をどんどん豊かにし、

最終的には、その知識習得を自動化させるために

AIやコンピュータプログラムのようなものまで

発展していった。

 

 

 

 

僕らはもう、

オートマトンとして行わなければならない

あらゆる行為の大部分を、

効率化することが可能になった。

そういう時代になった。

 

 

 

 

 

もう、無駄なことをしなくていいのだ。

もうAIやコンピュータができることを

わざわざしなくていいのだ。

もう手放してしまっていい。

 

 

 

 

オートマトンを辞めたとき、

僕ら人類が本当の意味で

何かを産み出す、創造する、表現する、

という人類本来の役割に気づくときがくる。

 

 

 

 

オートマトンであることを辞めた僕ら人類だけが行える、

崇高な行為は「直観」から始まる。

 

 

 

 

直観が生を生む。

無から有を生み出す。

 

 

 

 

この巨大な部屋(地球)の中に、

既存の物体Aを移動させるのではなく、

今までなかった新しい物体Bを

生み出すことができるのだ。

 

 

 

 

 

基本属性というフィルターを通して創造される

 

 

 

僕らは、オートマトンとして、

自然からあらかじめ「役割」

のようなものを与えられている。

 

 

 

あるいはその人の「属性」とか「特徴」

という風に言うことも出来る。

 

 

 

この部分は、

運命論であり、

決定事項であり、

必然であり、

初期設定であり、

 

 

 

変えることができない。

 

 

 

 

 

僕らはこの、変えることができない要素を

ベース(土台)に置くのだ。

 

 

 

 

その上で、

その土台の上に成り立つ、

別の要素を自由に作り、書き換え、

更新していくことができる。

 

 

 

この部分は自由に変えられる

 

 

 

 

ベースは変えられないが、

ベースの上にあるものは変えられる。

 

 

 

 

この「変えることができない基本構造

は言い方を変えれば、

 

 

 

神が与えてくれたその人らしさ。

その人の属性。

その人の特徴。

 

 

 

ここに意味を付けるのが、

運命的な生き方。

 

 

 

この「変えられない部分」

というフィルターを通して、

僕らは創造し、表現するのだ。

 

 

 

 

だから、受け入れるのだ。

 

 

 

 

受け入れてから、

始めて、創造が始まる。

表現が始まる。

 

 

 

 

 

自分だからこそそのようになってしまうこと。

自分がやると必ずそういう傾向になってしまうこと。

自分を通すと、いつも〇〇らしくなってしまうこと。

 

 

 

こーゆー「自分らしさ」に、

もし、何かしらの意味を付けるとしたら、

 

 

 

これは

「神様が自分に対して与えてくれた何かしらの役割だ」

という見方になっていくのだ。

 

 

 

 

これを無視して、

できない事を頑張っても

なれない者になろうとしても、

やれないことをやろうとしても、

 

 

 

それは、きっと、

基本的な属性が違うから、

自然の流れに沿わない。

 

 

 

 

あらゆるすべてを

模倣から入った後、

やはり最終的には、

 

 

 

「自分らしさ」として

「どうしても自分が出てしまう表現」

「どうしたって自分っぽくなってしまう創造」

これらを行っていく。

 

 

 

 

こーゆーものたちが、

宝物になっていく。

 

 

 

 

AIにもコンピュータプログラムにも、

絶対にマネできない部分。

 

 

 

 

だからこそ、知識に執着することを手放し、

自分の属性を知り、

自分にピッタリの創造・表現を行うのだ。

 

 

 

 

 

 

自分で創造・表現しようとすることを辞める

 

 

矛盾してしまう書き方のようになってしまうかもしれないけれども、

自分の属性を知り、それを受け入れた後は、

 

 

 

自分で創造したり、表現しようとすることを手放すのだ

 

 

 

 

 

なぜなら、既に備わっている「自分だけの属性」

あるいは「自分らしさ」というフィルターを通すと、

どうあがいても、絶対に「あなたらしい創造」

「あなたらしい表現」にしかなり得ないのだから。

 

 

 

 

 

逆の言い方を擦ると、

もし自分が自分のことを否定したり、

自分をダメ出し、

自分以外の外にある誰かになろうとすればするほど、

 

 

 

「本来持っている属性」の力を失い、

幻想のハリボテのようなでっち上げの「属性」

のようなものを通して、

何か別の創造、表現をしてしまう。

 

 

 

 

そこに「センス」は存在しない。

ゆらぎが存在しない。

そこに「らしさ」は存在しない。

 

 

 

 

強いて言えば、そこには

「ぎこちなさ」とか「違和感」

が生まれる。

 

 

 

 

 

らしくない。

 

 

 

 

 

認めちゃえ

 

 

だからこそ、僕らは認めちゃうしかない。

 

 

ずっと見ないでフタをしていた、

しょぼいと思い込んでいた自分の属性を

直視する時が来たのだ。

 

 

 

 

うんにゃ、そんなレベルじゃない。

 

 

 

そもそも自分の属性はおろか、

「自分自身が何者であるか」

これすらもハッキリわからない。

 

 

 

 

そんな状態のまま、

僕らは大人になり

彷徨い続けている。

 

 

 

 

だからこそ、外に意識が向かってしまうのだ。

 

 

 

 

本当はみんなクリエイターで創造主で

その人それぞれが生み出す特徴や傾向が

あらかじめ備わっており、

それをとおして、この巨大なアルゴリズム空間「自然」が

あなたというオートマトンである機械に

新しいプログラムを投げかけてくるのだ。

 

 

 

 

それをキャッチするには、

本来の属性を知り、

受け入れること。

 

 

 

 

そして、自我(コントロール)を手放すこと。

 

 

 

なぜなら、

その想像や表現は、

僕らの力量ではなく、

自然の力そのものなのだから。

 

 

 

僕らはそれを受け取る器に過ぎない。

そしてその器の形(属性)は人それぞれに違っている。

その器の形(役割)は人それぞれ違っている。

 

 

 

 

ワタシは受け取りたい。

その巨大な自然が生み出す大いなる英知を。

 

 

 

 

 

そんじゃ