どんなに無いと感じてもこの世界は「ある」でできている

 

 

「完璧な無音の世界を作ったとしても、自分の心臓の音だけは聞こえてしまう」

by ジョン・ケージ

 

 

 

西洋音楽史をひっくり返してしまうほどの衝撃。

僕の大好きでめっちゃくちゃ尊敬する

アメリカの偉大な作曲家、

ジョン・ケージの言葉。

 

 

 

 

実際に完璧に無音に近いほどの防音室の中に、

ケージが実際に入って、そこで体験したのは、

自分の心臓の音が、いつもの日常よりも増して、

ものすごくハッキリと聞こえてきた、

という現象だった。

(ちなみに、ケージは禅を世界に広めた鈴木大拙の影響を受けている)

 

 

 

 

「絶望の渦中にいるとき」

というタイトルの昔の記事の中で、

「あることへの気づき」について書いた。

 

 

 

 

 

僕らが生きているとき、

100%完全な「無」は存在しえない。

 

 

 

 

 

たとえ目をつぶって、座禅をしたり、

瞑想をして、何も考えないようにしよう、

としても、いつも何かしらの雑念というものが、

まるで川の中の水の泡のように、

絶えず沸いては消え、沸いては消えてを繰り返す。

 

 

 

 

 

たとえ、うまく雑念を消すことができたとしても、

今度は自分の感覚器官の存在に気づいてしまう。

普段の日常では絶対に感じられないような、

微細な感覚のうねりが、いつもより、

増大して体の中で感じ取られる。

 

 

 

 

その先を超えても、さらに

細胞の振動がある。

物質の振動がある。

 

 

 

 

「まったく何も無い」

は永遠に訪れない。

 

 

 

 

僕らの世界は、

何かしら「ある」で出来ている。

 

 

 

 

ないことの幻想

 

 

無いこと自体、

無いのだからそれは幻想なのだ。

 

 

 

それは泡のようなもの。

それはリアルに見えて本当は

ないものなのさ。

 

 

 

 

 

「どうせできない」も

「怖くて動けない」も

「悩んでいて苦しい」も

「つまらない」も

「恥ずかしくてできない」も

 

 

 

 

1つ1つを深く深く、

突き詰めてみていくと、

すべてが「恐怖」に行き着く。

 

 

 

 

すべてが「恐怖の道」へと通じている。

 

 

 

 

そしてその恐怖自体が、

この世界の「ありのまま」の現象を、

人間の心が「フィルター」を通してみたときに、

生まれるものなのだ。

 

 

 

 

「自然」という宇宙そのままの世界に対して、

人間の主観が入る。

そしてそれは、後から

アレコレと「意味付け」が加わっていく。

 

 

 

 

 

 

「恐怖」は自然界にあるものではなく、

「人間の主観」によって生み出されたもの。

 

 

 

 

それは有って無いようなもの

(人間を自然の一部と考えればね)

 

 

 

有って無いようなものは

所詮「幻想」なのだ。

恐怖は幻想なのだ。

 

 

 

 

要らないもの、

必要ないもの、

手放すもの、

嫌いなこと、

 

 

 

あなたの中にだけあって、

あなたを苦しめている

あらゆるすべてを取り払って、

 

 

 

 

まるでジョン・ケージが入った

完全無音に近い「防音室」のような世界。

そこに残る唯一、たった一つのソレは・・・

 

 

 

 

そう、あなたの心の中の「好奇心」

 

 

 

 

これだけは消えない。

これだけは消せない。

 

 

 

 

あなたも私も、みんな持ってる。

持っていない人間などいない。

 

 

 

赤ちゃんを見ればそれがよくわかる

 

 

 

最初から人間に備わっている性質。

大人になるにつれて、それをどこか

心の奥深くへと閉じ込めてしまった。

 

 

 

 

だけれども、それは在る。

必ずいる。

消せないし消えない。

絶対にそこにある。

 

 

 

 

 

さあ。

怖がるのを辞めて、

耳を澄ませてみよう。

 

 

 

 

常にそこに「ソレはある」

 

 

 

そんじゃ