簡単に諦めない。ありえない世界の理想の住人はいる

 

 

 

 

 

道を探すのを簡単に諦めない。

だってね、よ~く周りを見渡してみたり、

後ろを振り返ってみたり、

細部をのぞき込んでみたりすると、

絶対どこかに突破口があるはずだから。

 

 

 

周りを見渡したら、遠くに別の道があるかもしれない。

後ろを振り返ったら、気づかなかった別ルートに気づくかもしれない。

細部をのぞき込んだら、新たなルートへの扉のスイッチが見つかるかもしれない。

 

 

 

 

ありえない世界はあるはず。

だって「ありえない」は今の自分の枠の中だけで、

「ありえない」って思えるだけで、

枠の外の人たちからしたらただ「あたりまえの世界」があるはず。

 

 

 

 

理想はいつまでたってもこないのではなく、

理想を追ってもいいという許可が無ければ、

その存在にすら気づかないし、ゆえに行き方すら見えてこない。

理想は遠くじゃなくて、深く深く掘るもの。

理想郷。桃源郷。神の国。それは完璧。

でも実際には、完璧じゃなくていい。

「自分にとっての理想」となれば、話は別。

それは現実世界にある。

 

 

 

 

 

論文の内容も、本に書かれていることも、偉い人の話も、

どれだけ正しかろうがそれは昔の話。

この物理宇宙において、100%完璧な永遠はあり得ない。

それはデジタル化された切り離されたデータ。

だがしかし、この世界は諸行無常。

連続体の中で常に変化し続ける。

昔と全く同じパターンは巡ってこないってことさ。

 

 

 

今は今。

今この瞬間は、常に「切り替わっている」

というよりかは、1つの意識が1つの部分にフォーカスを当てた瞬間、

そこから無限の可能性が湧き起こるような神秘を秘めている。

この世界はアレフ無限(ℵ∞)

どれだけ取り除いていっても、その可能性の選択肢が

絶対になくならないし無限大に増えていく。

 

 

 

 

 

 

諦めると、

自分にとって都合の良い話だけ取り入れることになる

諦めると、

自分にとって無難な情報だけ触れるようになる

諦めると、

自分にとってこの程度の世界だけを見ようとしてしまう

 

 

 

 

それは罠

それは悪魔のささやき

それは過去の記憶が見せる幻想

 

 

 

 

もしドラゴンボールが7つ揃ってたなら。

もし目の前にアラジンのランプの精がいるのなら。

もしなんでも制限なく叶うのだとしたら。

 

 

 

 

理想だけ見る。

理想だけ。

 

 

 

 

そうしないと新しい価値観は手に入らない。

諦めてしまったら、自分の枠の中の思考で考えてしまい、

自分の枠にピッタリの情報しか手に入らない。

 

 

 

 

理想だけ見る。

理想だけ。

 

 

 

 

 

あり得ない世界はある。

あり得ない世界の住人もいる。

理想を生きている人もいる。

 

 

 

昔はそれを見つけることは至難の業だったかもしれない。

 

 

 

 

でも今はインターネットがあるから、

「え?こんな人もいるの?」っていうような人たちを

もっともっと探しやすくなったし、

「え、結構いるじゃん!」っていうくらい、

たくさん目につきやすくなった。

 

 

 

 

それはネットの力。

テクノロジーの力。

 

 

 

 

でももっともっと大切なモノがある。

それは「夢を見る力」

理想を追ってもいいって許可。

何でもありなんだってことにできちゃうこと。

 

 

 

だってこの許可が無ければ、

自ら自分の脳みその枠を設けてしまい、

「ま、こんなもんだよね」とか

「ムリゲーだよね」とか、

自分で道を見ることを辞めて、

勝手に道を閉ざすことになってしまう。

 

 

 

 

それはめっちゃ恐ろしいこと

 

 

 

 

当たり障りのない教えなんてまっぴらさ。

ありきたりなノウハウじゃないんだ。

みんなが通る道じゃないはずなんだ。

どこかで聞いたフレーズでもないはずなんだ。

 

 

 

 

心の声が、

「なんか違うよ。そーじゃないよ」

って、言ってる。

 

 

 

 

 

もぞもぞするんだ。

違和感を感じてしまうんだ。

 

 

 

 

そうだよね、

そりゃそうだ。

 

 

 

競争しない世界を目指すんだ。

道は見えないようになってるはずなんだ。

 

 

 

 

完璧なる理想の「道」は

もしかしたら人間はたどり着けない。

のかもしれない。

 

 

 

でもその道へ近づいていくことはできる。

 

 

 

 

その道への近づき方がある

 

 

 

 

それは「消去法」というアプローチでしか、

定義していくとができないようになっている。

 

 

 

 

それは例えるなら、

木の丸太から要らない部分を削って、

少しずつお釈迦さまの像を彫るような行為。

 

 

 

でも人によってそれぞれ何を彫るかが違う。

 

 

 

 

Aさんは「キリン」を彫るかもしれないし、

Bさんは「リンゴ」を彫るかもしれない。

Cさんは一生かけて、結局自分の道を失い、

何も彫れずに、ただ目の前が「おがくずの山」となってしまうかもしれない。

Dさんは結局何も彫らず、ほとんど丸太のままの木を見つめて一生を終えるかもしれない。

 

 

 

一人ひとりの意識がフォーカスした部分が道になる。

がしかしフォーカスする部分は無限大に広がっていく。

宇宙は人の意識の数ほど増えていく。

 

 

 

 

だからこそ、

道は体系化できない。

道は言葉にできない。

道は定義できない。

道は教典になり得ない。

 

 

 

 

知識を否定すること。

 

思い込みを外すこと。

とらわれから抜け出すこと。

 

 

 

道は一人ひとり違ってくる。

 

 

 

 

あるいはそれは、台風の目のように中央が存在しない。

しかし「存在しない中央」を「取り囲むものたち」の存在によって、

その存在が「台風である」というように定義することができる。

 

 

 

 

「道」を定義することはできない。

だがしかし「道以外のもの」は定義できる。

 

 

 

 

「道」はよくわらんけども、

「道じゃないもの」はなんとなくわかる。

自分にとって必要ないもの、いらないものを少しずつ削っていく。

でも「道じゃないもの」は結局、自分で体験して「失敗」からでないと、

それが「道じゃなかった」と気づけない。

 

 

 

体験しないと得られない。

これは本に書いてあること(断絶されたデジタルデータ)じゃなくて、

個人でそれぞれ体験(連続体のアナログデータ)でしか得られない。

 

 

 

 

なぜならこの世界は諸行無常

この世界は毎瞬間、常に変化している。

 

 

 

 

 

 

 

だから道は、ふわふわして、よくわからない。

隠されていて、しかも捉えどころがない。

 

 

 

 

 

 

だから「消去法」で探していくしかない。

 

 

 

 

 

アプローチのもっと最初に行う設定が、

信念をつくること。

 

 

 

 

「道」を信じるからこそ、

そこで初めて、

道の存在へ意識が向き始める。

 

 

 

 

次に、道への意識が向き始めたとき、

今度は「道じゃないもの」への意識が

出来てくる。違い違いがぼんやりと、

わかるようになってくる

 

 

 

 

そうしたら、時間をかけて、

経験を通して、失敗を通して、

「道じゃないもの」を見つけ、

「それらを削り落としていく作業」

これを繰り返していく。

 

 

 

 

だけどやがて、

要らない部分が削ぎ落されていくほどに、

少しずつ少しずつその中央に

「何かしらの存在」が浮き彫りになっていく。

 

 

 

 

 

人間は完璧な道へ到達することは

出来ないのかもしれないけれども、

でも削ぎ落していくことで、

「道」へ近づいていくことができる。

 

 

 

 

 

道はゴールじゃなくてその過程。

過程そのもの。

つまり「今この瞬間」の連続。

 

 

 

 

 

なぜならゴールは永遠に来ない。

少なくとも人間の寿命では

到底追いつけない。

 

 

 

 

であるのなら、過程の中でいかに

「道でないもの」を削ぎ落していくか。

これにかかっている。

 

 

 

 

そうやって向かって行くしかない。

でも簡単には諦めない。

諦めなければ(今までの自分にとっては)「ありえない世界」が

少しずつ顔を見せてくる。

諦めなければ見えなかった世界が少しずつ見えるようになってくる。

 

 

 

 

ワタシ、

今日も道をいく。

見えない道を歩く。

見えない道を作る。

見えない道を信じる。

 

 

 

そんじゃ