お宝と超お宝の見つけ方

 

 

お宝はいつもキラキラしている。

お宝だからね。

 

 

 

キラキラしてて輝いていて、

みんなに探されている。

みんなに求められている。

みんなから好かれている。

 

 

 

お宝はめっちゃ輝いて、

めっちゃ目立って、

めっちゃ煌びやかで、

あこがれの対象で、

多くの人々が集まってきて、

 

 

 

 

お宝はたぶん、「おから」の

数兆倍、人々から求められている。

探されている。

 

 

 

 

 

ひよこ

「ボクちんは、おから好きでしゅ」

「白いご飯におからをのせて、お醤油をかけて食べるでしゅ」

「にっぽんじんに生まれて良かったでしゅ~」

 

 

 

お宝の見つけ方

 

 

お宝の見つけ方はかんたんなのだ。

 

 

なぜなら、「おたから」って

書いてあるから。

 

 

 

もしかしたら自らを「おたから」

って書いていないとしても、

人々の間で「あれはお宝だ!」っていう認識があるから、

もう一目瞭然なのだ。

 

 

 

そんで、「お宝」自身もそれを知っているから、

自らを「お宝」として輝き続けるのだ。

 

 

 

お宝

「ほらほら、僕はお宝だよ」

「ほらほら、僕は高嶺の花なのさ」

「だからいつも僕は、高いところにいるよ」

「僕はいつもピカピカに輝いているよ」

 

 

 

 

ほらね、すっごくわかりやすいのだ。

「お宝を求める大勢の人々」と「お宝自身」は

互いに「対の関係」となり、

それぞれにバランスを取りながら、

存在しあう「セットの関係」なのだ。

 

 

 

 

白い鳥さん

「あれは石ころだねぇ」

 

 

 

ブタさん

「あれは石ころだねぇ」

 

 

 

ネコ

「それは石ころだねぇ」

 

 

 

人間

「あ!ダイヤモンド発見!!!」

 

 

 

リアル赤ずきんちゃん

「そのお宝はアタシのもんだよぉウケケケ」

 

 

 

 

お宝はお宝を求める者たちが

「それはお宝であるという認識」

によって支えられている。

お宝とそれを求める人々。

2つは1セットなのだ。

 

 

 

 

 

 

超お宝の見つけ方

 

 

ところで、この世には

「超お宝」もある。

 

 

 

超お宝は、超がつくくらい、

お宝なのだ。

 

 

 

超がつくくらいお宝なのに、

超お宝は

「見つけられにくい存在」

なのだ。

 

 

 

 

みんなが「お宝」に目がくらんでいる間、

「超お宝」を探すことはできない。

見つけることも出来ない。

 

 

 

なぜなら人はその瞬間、瞬間、

1つのことしか意識ができないから。

 

 

 

お宝に意識が向いている間、

超お宝には意識を向けられないのだ。

 

 

 

 

そんで、実は、その超お宝という存在は、

「お宝」みたいにわかりやすくない。

 

 

 

 

高いところでもない、

みんなが集まる所でもない、

「ここぞ!」というわかりやすい場所でもない、

 

 

 

ひっそりと、わからないよう、

「超お宝」は隠されている。

 

 

 

多くの人々の目をくらませるように、

ひっそりと隠されている。

 

 

 

 

そして「超お宝」自身もそれを解っている。

わかっているから、

あえて自分から、その身を誰もが目を向けない、

低き場所へ置くのだ。

 

 

 

 

「超お宝」は超お宝の存在を認識している者だけが

知ることができる。

探すことができる。

手に入れることができる。

会うことができる。

 

 

 

 

そのようなものなのだ。

 

 

 

 

ルパン三世

「俺はルパン三世。俺様に盗めないお宝はこの世に存在しないさ!」

 

 

 

銭形

「ハーッハッハッハ!引っかかったな!」

「そいつはニセモノだ!ルパーン!」

 

 

 

 

ルパン三世

「とっつぁ~ん!」

 

 

 

 

お宝は言わなくてもわかるけれど、

やはりその存在は素晴らしい!

みんなが欲しくなるほどの存在だからね!

 

 

 

がしかし、超お宝は、

ガチでヤバい。ガチで素晴らしい。

「ああ、こんなに素晴らしいもの、隠されて当然だわ」

っていうもの。

 

 

 

 

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