シンプルに枠の存在に気づく方法

 

 

(waku)

 

 

 

 

それは、

 

 

 

 

境界、

へだたり、

分割するもの、

パターン、

行動範囲、

セルフイメージ、

文化、

慣習、

習慣、

学問、

規範、

ルール、

宗教、

社会、

型、

システム、

組織、

檻、

柵、

ケージ、

籠、

器、

鎖、

 

 

 

 

 

この世に存在するあらゆる枠

 

 

 

 

それはときに

人にとって良いものにもなり、

人にとって悪いものにもなりうる。

 

 

 

 

安定をもたらし、

繁栄をもたらし、

成長を促し、

エネルギーを増幅し、

 

 

また同時に、

 

 

停止をもたらし、

死をもたらし、

衰退をもたらし、

エネルギーを奪う。

 

 

 

 

どちらにも作用し、

どちらにもなりうる。

 

 

 

 

時の経過とともに枠は変化していく

 

 

 

 

 

シンプルに枠に気づく方法

 

 

この世のあらゆる枠に気づく方法。

 

 

とりわけ、大切なことは、

自分自身が所属している

「見えない枠」に気づく方法。

 

 

 

 

それは、質問をすること

 

 

 

クエスチョン

 

 

 

「なぜそうなのか」

「なぜそうなるのか」

「どうしたらそうなるのか」

「どうすればそうなるのか」

 

 

 

 

これが枠を探す「鍵」

 

 

 

 

つまり問答をするということ

 

 

 

目に見えたり、

存在を認識しやすい

枠を覗いて、

 

 

 

それ以外の、目に見えなかったリ、

隠されていたり、

わかりずらかったりする枠については、

 

 

 

 

問うことで、

その存在を認識することができるようになってくる。

 

 

 

 

もちろん、経験、体験をすることで、

認識することも出来るけれど、

しかしそれと同じように、

 

 

 

 

 

「問う」ということで、始めて

「今まで考えたことも無かったような領域」

について、最初の一歩を踏み入れることになる。

 

 

 

 

「問う」ができない

 

 

でもでも、この「問う」

というシンプルなことが、

できるようでなかなかできない。

 

 

 

日々、雑務に忙殺されたり、

悩んだり、心配したり、

感情的に流されたり、

 

 

 

心を静めていないとき、

「問う」ということをする余裕がない。

 

 

 

そんなことは実生活に関係ないように思えてくる。

どうでもいい感じになってくる。

目の前にあるやるべきことの方が最優先のように感じてくる。

 

 

 

答えのない、実利のない、

直接的な解決のない、

「問う」という行為自体が、

そもそも「無駄」に思えてくる。

 

 

 

まるで芸術や研究に没頭したり、

あるいは書物を読み漁ったり、

あるいは、まったく無利益なことに打ち込んだり、

 

 

 

それらと同じくらい、

この「問う」という行為が、

実生活において、

無駄のように感じてくる。

 

 

 

それに「問う」はちょっと頭を使う。

なぜなら、解をさがすために思考するから。

 

 

 

 

忙しいし、疲れているし、

あれこれ次にやらなきゃいけないこともあるし、

そんな状況で、実生活に関係のなさそうだし、

実利もないし、実学で直接身になるともなさそうな

「問う」と言う行為に対して、

わざわざ時間を作って思考するエネルギーも気力もない。

 

 

 

 

だから「問う」はカンタンに見えて、

カンタンじゃない。

 

 

 

 

でもでも、

問うことは、(おそらく)人間にしかできない、

素晴らしい機能。

 

 

 

 

問い続ければ問い続けるほど、

深淵な部分に眠っていた

新たな枠がみつかるかもしれない。

 

 

 

 

問う。

 

 

 

深いのぅ。

 

 

 

そんじゃ