流れはいつも上から下へ

 

 

 

 

 

 

すっごい運が良い生き方と神様のことについて

 

 

 

 

気温はいつも高いから低いへ

肉体はいつも生から死へ

 

 

 

流れはいつも一方通行

 

 

 

 

「あれしたい」

「これしたい」

「そうなりたい」

「アレほしい」

 

 

 

などなどは、

いつも底流に流れていて、

 

 

 

 

「どうしよう」

「どうやろう」

「どう進もう」

「どう叶えよう」

は、底流から上流へ向かって

進んでいくための

「知恵」(顕在意識)だということ。

 

 

 

 

「頑張ろう」

「我慢しよう」

は、まるで滝を登るように

崖を登るように、

がむしゃらに進むことで、

 

 

 

 

「がんばらない」

「我慢しない」

ことで、緩やかな坂道や、

階段をゆっくり楽ちんに

登っていくようなこと。

 

 

 

 

 

「どうしよう」

「どうやろう」

「どう進もう」

は頭の中の世界。

顕在意識の世界。

 

 

 

 

 

それはそれで大切なこと。

この地球で生きるうえで、

必要なこと。

 

 

 

 

だけども、

もしかしたら、

順番が逆なのじゃないかな

 

 

 

 

神さまは、

人間に知恵を与えて下さった。

 

 

 

だから人間だけが、

「どうしよう」

「どうやろう」

「どう進もう」

など知恵を持って、

ことを進めて行ける。

 

 

 

 

でも、もしかしたら、

本当は、

神さまは、

下から上へあがるために、

その知恵を与えて下さったのではなく、

 

 

 

 

 

上から下へ流れるために、

その知恵を授けてくれたのではないだろうか

 

 

 

 

 

上には「神様の声」がある。

それは天命ともいえる。

 

 

 

 

しかし、底流に目が向いているとき、

上流にあるその「神さまの意図」

を見つけることができない。

 

 

 

底流を見ているとき、

もう進む方向は、

上を目指すしかない。

 

 

 

 

でも、本当は真逆で、

僕たちは「完璧な存在」であった

赤ちゃんのころは、上流にいて、

そして神様と繋がっていた。

 

 

 

 

神さまは僕らに知恵を与えてくれたのは、

それは「僕たちの欲求を叶えるため」

ではなく、

 

 

 

神さまが与えた使命、つまり「天命」

ってやつを叶えるために、

知恵(顕在意識)を与えてくれたとしたら。

 

 

 

 

天命は、上流にあり、

天命は真我と繋がれた時、

それを見つけることができる。

 

 

 

 

それが僕らの本来の「願い」

本来の「生き方」

本来の「使命」

 

 

 

 

そして、その「使命」

通りに生きるとすれば、

 

 

 

 

それは「上流」から

「下流」へ向かって進むようなことなので、

何一つ努力はいらず、

何一つ苦しみは無く、

 

 

 

まるで「運」の流れに身を任せるかのように、

自然のなすままに、

自分も楽ちんに流されていく

(これが一番の「がんばらない」)

 

 

「これしたい」

「こうなりたい」

「ああなりたい」

「アレほしい」

はぜ~んぶ、

自分の頭の中の世界。

顕在意識。

思考。

 

 

 

「思考は現実化する」

 

 

 

がしかし、ただし、それは

下から上へ向かって

登るような行為のために、

膨大な時間とエネルギーが必要になる。

 

 

 

でももし「天命」があるとして、

それは最初から用意されていて、

それは上から下へ向かう流れのように

楽ちんに身を任せるだけのことで、

自動的に進んでしまう。

 

 

 

 

もし神さまが、一人一人に

その道を既に用意してくださっていたとしたら、

 

 

 

 

僕らはそれを無視して、

底流を見続けているかぎり、

その真我の声を聞くことはできず、

よって「天命」が何であるかを知ることができない

 

 

 

 

道は登るもの

道は険しいもの

道は疲れるもの

道は労力がかかるもの

 

 

つまり、

人生は大変だ

世界は厳しいものだ

 

 

 

 

そーやって人間の世界で、

「意味付け」が始まってしまう。

 

 

 

 

でもそれは

本当に

そうなのだろうか

 

 

 

 

 

超運良い人

流れに乗ってる人

ツイてる人

常に楽しんでる人

ノリだけで生きてる人

常にハッピーな人

あり得ない世界に行っちゃった人

ワケワカラン人生を送れちゃってる人

 

 

 

 

彼らは、

苦しみを抱いているのだろうか。

悩んでいるのだろうか。

悲しんでいるだろうか。

 

 

 

ワタシには、

彼らは、

流れに乗っているように思えて仕方がない。

 

 

 

 

上手くやるとか、

計算するとか、

賢くやるとか、

力を使うとか、

 

 

 

 

そーゆー人間の頭では

辿り着けない世界がある

人知(顕在意識)を超えた世界がある

 

 

 

 

人間というちっぽけな存在の頭の中で、

人生設計をして、

それを大切に大切に、

必死に守りながら、

生きてるのではなく、

 

 

 

 

自我が生み出す「幻想」をすべて手放し、

0ポイント(無我)になったとき、

真我とつながり、

そこで天命を見つけ、

そしてその通りに生きるということ、

それが流れに沿って生きるということ

 

 

 

 

そうであるならば、

顕在意識とは、

人間の頭の中で考えた「夢」

を叶えるために使うのではなく、

 

 

 

 

その人に潜在意識を通して

「使命」が与えられ、

それを叶えるために、

そこで初めて神様に与えられた「知恵」

(顕在意識)を使う。

 

 

 

 

本来、こーゆー順番なのではないだろうか。

 

 

 

*ちなみに「好きなことをやるな」という話ではありません。

「好なことだ!」と思い込んでいた「幻想」を手放し、

「本当の好きなこと=天命」この方程式を探すような重要なことなのです。

 

 

 

 

「あれしたい」

「これしたい」

「アレほしい」

「ああなりたい」

という人間の欲のために、

 

 

 

 

「どうすれば」

「どうやれば」

「どう進めば」

という知恵を使うのではなく、

 

 

 

 

「天命」があり、

それを叶えるために

知恵が与えらている。

 

 

 

 

この流れに沿ってる者だけは、

何も苦労することなく、

何も悩むことなく、

 

 

 

運の流れに沿って、

自動的に「願いごと以上」の

もっと先の素晴らしい世界へ

進んでいけるのではないだろうか。

 

 

 

 

そう思えてくると、

ワタシは少しずつ、

自分の頭の中で作り上げた世界

(自我による幻想)という執着を捨てていく

 

 

 

 

その上で、

今のワタシのレベルで、

自分が幸せになれること、

他人に与えられること、

世界を豊かにできること、

神さまが喜ぶこと、

 

 

 

 

そーゆーことの方へ

意識が向いていくのです

 

 

 

 

そんじゃ