信じられたら一番最強

 

 

 

 

 

あのね、今更で大変恐縮なのだけども、

1つ聞いていい?

 

 

 

 

コロナ禍という

言葉があるじゃん?

そんでもって・・・

 

 

 

 

 

コロナ禍

 

 

 

 

 

 

 

 

 

禍!

 

 

 

 

 

 

コレナニ・・・??

 

 

 

 

なんなんコレ・・・????

 

 

 

 

 

 

コレ、なんて読むの・・・?

 

 

 

 

 

 

な・・べ・・・??

(ちがう・・??)

 

 

コロナべ?

(ちがう?)

 

 

 

 

知らん?

 

 

 

もういい?

 

 

 

 

 

知らなさ過ぎて、なんか、スマソ。

 

 

 

 

 

ワシ、ニュースとか見なさ過ぎて知らないことだらけ、、、

 

 

 

 

 

この「コロナ禍」の「禍」に、

みょうな違和感を感じてたんけど、、、

「ま、別にいっか」と思って放っておいた

 

 

 

 

なんか知らんけど、

急に、ふと思い出して、

コレの意味を聞いてみたくなったのだった

 

 

 

 

 

ま、そんだけ。

深い意味はない

 

 

 

 

 

 

 

信じやすいやり方を選ぶ

 

 

 

心のこととか、

形而上の世界のこととか、

精神的なこととか、

 

 

 

 

そーゆーことに関して共通して言える

たった1つのこと。

 

 

 

 

それは、、、、

 

 

 

 

ただ感じたり、

ただ気づいたり、

ただ頭パープーになれたり、

 

 

 

 

つまり、

「信じられる」

ということ

 

 

 

 

 

それが一番なのさ

それが最強なのさ

それがゴールなのさ

 

 

 

 

それが天才。

天才は一瞬で解に行き着く。

それが本筋。

 

 

 

 

そのゴールへ、

プロセスを飛び越えて、

一気に到達できるって、

素晴らしいね!

 

 

 

 

でもそれは天才

(あるいは、頭お花ちゃん)

 

 

 

 

でそれがゴールなのに、、、

じゃあなんで、

わざわざ思考してしまうのだろう。

 

 

 

 

 

心について細かく分析したり、

形而上の世界について推論したり、

精神のことについて数学や物理学を用いてまで、

深めてたり、

 

 

 

 

そういう風に

進めていく必要はあるの?

 

 

 

 

 

これは人によって

答えはいろいろあると思う

 

 

 

 

 

そもそも、純粋なる好奇心で

ただ物事を知りたいという欲求があるし、

そもそも、天才じゃない人は、

下(具体)から順を追って上(形而上)へ

積み重ねるようにしていかないと、

解までたどり着けない。

 

 

 

 

 

でも、

もっともっと

重要な答えがある

 

 

 

 

そう、それは・・・

 

 

 

 

 

信じやすくなるから!

 

 

 

 

 

プロセスを吹っ飛ばして、

一気に解まで行ける人は

心の底から「安心」している。

 

 

 

 

そうじゃない人にとっては、

「不安」からのスタートなの。

(もっというと、恐怖があるのだ)

 

 

 

 

1つ1つ、足元の事象を、

ふわふわ(形而上)から

カチッとした土台(具体)に変換した上で、

その上に足を乗せて、

そこで初めて「安心」を得る

 

 

 

 

 

そう、その変換するものである「論理」が必要。

 

 

 

 

 

理論は安心を得るための土台。

信念の下に置かれるもの。

 

 

 

つまり人間が、

本当に欲しいものは、

「信念」

 

 

 

 

本当はそれがゴール。

そこが本当の「需要」

 

 

 

 

でもそれに気づかずに、

正しさを求める。

正しさは

 

 

 

 

論理的な証明。

統計学的な確実性。

常識。

などなど

 

 

 

 

でもそれは

幻想。

(論理は論理の外側を証明できるけど論理自信を証明できない。点はこの世に存在しない。)

 

 

 

 

 

つまり「点はある」と信じなければ、そもそも生まれない。

信念がなければ論理は生まれない

 

 

 

 

ワタシ、天才じゃないから、

信じやすくなるために

論理という幻想ツールを使うしかない

 

 

 

 

いきなり「頭お花」に行かれない・・・

(誰も責めてない。むしろこの状態が一番の天才なのれす。いきたい)

 

 

 

 

 

恐怖から安心へ向かうために、

形而上のことを、

深く考えていくプロセス(道)が必要なの。

 

 

 

 

そのプロセスが積み重なると、

やがてその積み重ねてきた先にある事象に対する

「信じやすさ」が手に入る。

 

 

 

 

具体から抽象までの間に、

「論理」という一本の筋の通った道ができる。

 

 

 

 

その道があると

「安心感」が得られる。

 

 

 

 

「安心感」が得られると、

「信念」が強化される。

 

 

 

 

そーゆー順番。

 

 

 

 

 

そもそもそもそも

そもそもをどんどんだどっていくと、

結局のゴールはこの「信念」が欲しいだけ

 

 

 

 

この信念が安心につながる。

信念がエネルギーを生む。

自由な意識領域も広がる。

(セルフイメージ)

 

 

 

 

それが唯一の目的。

 

 

 

 

論理はただのツールにすぎなかったのでした。

 

 

 

 

とは言いつつも・・・

最後に付け加えるなら、

ワタシ含め、すべての人間はオートマトン(自動人形)であると同時に、

そうじゃない真の人間性も持ち合わせているから、

目的主義と同時に、無目的でもあるはず。

 

 

 

 

だからこそ、

その唯一の目的をひっくり返すと、

そこには「純粋なる好奇心」が張り付いている。

 

 

 

 

 

ワシにとって、

その「純粋なる好奇心」である対象が、

宇宙とか、物理学とか、

自然科学とか、形而上学とか。

 

 

 

 

そーゆーのが

好きなんじゃ

 

 

 

 

だからそーゆー好奇心を

追い求めてたら、

自然と信念が深まっていく、

という順番。

 

 

 

 

 

そんでもって、この道(論理)は360度、

いろいろな方角に開かれてる。

 

 

 

 

でも最後に行き着くのは1点

それは円の中央にある「信念」

 

 

 

 

人によってアプローチが違うだけ。

ワタシ、たまたま宇宙とかが好きだから

その道から入る。

 

 

 

 

でも人によっては、

まったく違う分野かもしれない。

 

 

 

そして、

どの道(分野)を辿ろうが、

最後は1つへ続いてく。

 

 

 

 

「信じやすさ」を手に入れるために

自分が一番、興味がある道を

人は自動的に選んで進んでいく

 

 

 

 

ということを信じる、

というこが、とても大切 ↑

 

 

 

 

それはつまり言い換えると、

 

 

 

 

「迷いを断つために」

「ブレなくなるというために」

 

 

 

 

だって自分自身が自分の道を信じられなくなったら、

そりゃ本末転倒だもの。

 

 

 

 

 

だからあんまし悩まない。

 

 

 

 

とりあえずもうちょっと奥、

もうちょっと奥、

そんな感じで「好奇心」という

エネルギー源を頼りに1つ1つ進んでみるだけ

 

 

 

 

そんじゃ