降りて、後ろを振り向き、逆走し、盲目になる。

 

その道。

 

 

その道の先に誰かが歩いている。

 

 

その道の隣にも誰かが歩いている。

 

 

ああ、そういえば、後ろにも、誰かが歩いている。

 

 

見渡すと、あちらこちらに誰かが歩いている。

 

 

気づくと、どんどん人が増えていく。

 

 

最初の頃よりも、活気が増している。

 

 

 

 

降りよう。

 

 

 

あえて、波乗りをしない。

 

 

あえて、追随しない。

 

 

あえて、辞める。

 

 

あえて、降りる。

 

 

 

180度振り返り、

逆走し始める。

 

 

 

 

その道は、その波は、

どれくらいの寿命だろうか。

 

 

 

100年規模なら、そのままでいい(のかもしれない)

 

 

 

数十年、数年単位なら、

辞めよう。

 

 

 

今やってるその「好きなこと」と思っているものが、

本当に好きなことなのか、

それともあるいは、一過性のものなのか、

 

 

 

 

それは、180度振り返り、

逆走した時に初めて気が付く。

 

 

 

 

波を抜けたと同時に、

自分の気持ちの中の情熱も覚めるとき、

それは一過性の現象であったと気づく。

 

 

 

 

がしかし逆に、

 

 

 

波を抜け、逆走し始めたとき、

壮大な解放感やじわじわと温まるような幸福感

そんなもので満たされ包まれ始めたとき、

それは「本当に好きな事であった」とわかるとき。

 

 

 

 

 

トレンドが抱える寿命

 

 

トレンドは歴史でありデータであり自然現象。

 

 

 

数年単位で沸いては消えていくそれは、

ある日、幻想であったと思わされる日が訪れる。

 

(「あのころは良かったんだよ・・・」)

 

 

 

 

数十年単位で沸いては消えるそれは、

人生そのものを飲み込んでしまうほどのインパクトに

なりかねない。

 

(「ま、人生とはこんなもんだよ・・・」)

 

 

 

 

経験の人は、

人生をかけて、体験し、経験し、

紆余曲折を経て、ようやく気付く。

 

 

「よし!ついに人生のガイドを手に入れた!」

「世界の仕組みの取扱説明書を理解した!」

 

 

 

としても、もしそれが晩年となってしまったのであれば、

それはもう、残された時間がほとんどないかもしれない。

 

 

 

 

賢い人は「あらゆる知恵の源」である歴史から

それを知り、早い段階で、気が付く。

 

 

「歴史は繰り返すんだ」と。

 

 

 

だけれども「自分が本当にしたいこと」

は歴史には書かれていない。

早く知恵を身に着けたところで、その世界地図をもってたとしても、

自分がどこへ行きたいのかを知らないのであれば、

それはそれで非常にモッタイナイ。

 

 

 

 

天才な人は「あらゆる知恵の源」を

歴史(人間が作った文字によるもの)からではなく、

自然現象を観察することで見つける。

 

 

 

「はいはい、自然界のパターン見つけた!これは人間にも当てはまるわ」

 

 

 

がしかし、「自分が本当にしたいこと」は

自然現象の中からは見つけられない。

自分の外を見続けるだけではなく、

自分の外側を見て、そのときに、

自分の内側にある「感動」が発動するから

心の中から「好奇心」が生まれる。

そうでなければ、はやり、手に入れた世界地図は、

宝の持ち腐れとなってしまう。

 

 

 

 

 

愚かな人。

愚かな人は、バカであり、盲目であり、

何も経験してないし、何も知らない。

 

 

 

 

だけれども「純粋な心」を持っている。

(子供の心を忘れさえしなければね)

目の前にある事象1つ1つに素直に喜びを感じられ、

今できる範囲で、1つ1つ自分の心を満たしていく。

 

 

 

ああ!本来は、それだけで、良かったのかもしれない。

 

 

 

 

無知であっても、ピュアであっても、

「心の羅針盤」が指し示すとおりに、

自分の心が赴くほうへ、

「素直に生きる」ができている人であれば、

 

 

 

 

 

最初から「渦巻く波」に

飲み込まれる必要性が、

全く無かったのだ!

 

 

 

 

 

1つ1つ「自分の好き」や「ときめき」、

「感動」「喜び」などを

積み木のように積み上げていく。

 

 

 

 

まっすぐでピュアで純真で、無垢で、

愚かに見えて、実は、一番、聡明だ。

これほど無駄のない生き方があるだろうか。

 

 

 

 

 

波とどう向き合うか

 

 

トレンドに乗ることも乗る生き方も悪いことじゃないし否定もしない。

 

 

乗り方を知ってる人は乗り続けることができる。

 

 

それはすべて、歴史であり、データであり、自然現象。

 

 

 

そして、そーゆーのを読み解くのは、AIの方が、得意な分野。

 

 

 

でも心をもつ人間は、自分の感情の波が、どうしたって

自然現象の波と同調してしまう。

だから、波乗りするとき、自分の心の浮き沈みも発生する。

 

 

 

 

それこそが「競争の原理」の渦巻く最中に入ることを意味する。

 

 

 

 

そしてそれを否定しない。

それはそれでいい。

 

 

 

でもあえて、

「トレンドに乗らない」という大勢の人が

当たり前のように行う行為の真逆

のことを書いてもいいじゃないか

 

 

 

 

このテーマについては、

本音の本音の本音の本音の部分で、

アレコレ書いてきたけれども、

何度も何度も形を変えて、たくさん記事を書いてきたけれども、

何度も何度も考えたり、頭をぐるぐるしたけれども、やっぱり思う。

 

 

 

 

「ああ、やっぱり、自分は競争が嫌いだ」

 

 

 

 

いやいやw 自分はトレンドとか興味ないっす。

トレンドってなんか、そーゆー専門の人がやってることでしょ?

みたいなことを言う人がもしいたとしても、

実はそーじゃないのだ。

 

 

 

 

大なり小なり、多くの人が無意識にトレンドに乗っているんだ。

人だけじゃない。

あらゆる生物はこの波に乗って、この自然現象が作る

「淘汰システム」の上で踊らされているんだ。

 

 

 

 

どんな形であれ、みんな、

何かしらの競争に加担して生きている。

 

 

 

 

*注意

ちなみに「トレンド(波) ≠ 競争」です。

同じものではありません。似て非なるもの。

それは最後の方に書いています。

 

 

 

 

競争を抜けた先

 

 

 

波を降りよう。

来た道を逆走しよう。

盲目になろう。

今やってるそれを辞めよう。

愚か者になろう。

 

 

 

でもそれは、

「聡明な愚か者」だ。

 

 

 

 

トレンドを探す時間と、

トレンドを解析する時間と、

トレンドの流れに耐えるべく心を訓練する時間と、

トレンドに乗り続ける(バランスを取り続ける)方法を得る時間と、

 

 

 

 

生涯かけて行う、

それらすべての時間と労力を足して、

かかるコストの膨大さに気づく。

 

 

 

 

 

そのすべてのコストを、始めから

「自分の畑を耕すこと」(自分のしたいこと)

だけに向けていたら、

どれだけ聡明なことだろうか。

 

 

 

 

人生をかけて時間をかけて、

アレコレ紆余曲折して、

経験した人よりも、

 

 

 

 

若いうちから歴史を知り、

知識と知恵を蓄え、

いろいろなことに精通した人よりも、

 

 

 

 

あらゆるすべての現象を、

瞬時に読み解く天才よりも、

 

 

 

 

最初から何もせず、何も知らず、

バカで愚か者で、だけれども

素直でピュアである人の方が、

 

 

 

 

実は聡明だったんだ!

 

 

 

 

自分の畑を耕すことしかできない人は、

無知で愚かで、ピュアで純粋で無垢で、

 

 

 

だがしかし、一番、聡明だ。

 

そして、一番、幸福な人だ。

 

 

 

 

知らなくて良かったんだ

バカで良かったんだ

無知で大丈夫だったんだ

何もしなくて良かったんだ

 

 

 

 

ただ、自分の「好き」と「ときめき」と

「感動」と「楽しい」の1つ1つを、

積み木のように積み重ねていく。

 

 

 

 

「それは波に乗る」ではなく、「波を作る」側の行為。

 

 

 

 

競争が好きだったり、

競争で良い思いができるのであれば、

別にそれはそれで否定しないけれども、

 

 

 

 

でも、そうでないのなら、もう

「競争をやめよう」

「争うの辞めよう」

「戦うの辞めよう」

「怖がるの辞めよう」

「不安になるの辞めよう」

「奪われると思うの辞めよう」

(これらすべては、結局みんな、1つへ行き着くのだ)

 

 

 

 

そのエネルギーも時間も、

すべて最初から、

「自分の畑を耕すことだけ」

に向けていればそれで大丈夫だったんだ。

 

 

 

 

自分の畑のこと以外は、

何も知らないし、何もできないから、

バカで無知で愚かに思われるかもしれない。

 

 

 

 

だけれども、

なんて聡明なことなんだ!

 

 

 

 

ピュアで純真で、

だけど一番聡明だ。

 

 

 

 

これこそが

「何もしない教」の力の一種だ。

「何もしない」に隠された真実だ。

 

 

 

 

波を否定せず受け入れることの意味

 

(波が競争じゃなくなるとき)

 

 

 

波を否定しない。

 

 

波は波として自然現象として、

ありのままに見る。

 

 

 

波を操ろうとするとき、

いつの時代もいかなる場所においても、

どんな状況でも、必ず「競争の原理」に巻き込まれる。

 

 

 

がしかし、波を否定しないでいれば、

ときどき「波に乗る」ということがある。

 

 

 

それは不可抗力で乗れた、ということ。

 

 

 

その場合は「競争の原理」ではない、

別の原理が動き出す。

 

 

 

それは、

「たまたまの運」ということにしておく。

 

 

 

もし、そうでなく、運を否定し、

実力側に持って行こうと努力を始めると、

「波の乗り方を知る世界」へ足を踏み入れることになる。

 

 

 

 

それはつまり、データ主義になり、分析思考を使い始めると、

波の乗り方を覚え始めるが、

もれなく「競争の原理」の枠にとらわれる。

そこから逃げることはできない。

(それでもいい人はそこに留まる。良い悪いの話じゃない)

 

 

 

がしかし、競争をしたくないのであれば、

波は起こるべくして起こる「運」の現象として、

とらえるほうが良い。

 

 

 

「ああ、今回は乗れた~。ありがたや~」

みたいな。

 

 

 

波を実力ととらえるとそれは自力。

波を運ととらえるとそれは他力。

 

 

 

 

結局最後は

 

 

 

そんなことよりも、

もっと大切なことがあるね。

もっと重要なことがあるね。

 

 

 

自分の時間もエネルギーも寿命ある限り、

目の前にある「自分の畑」を耕すことに使い続け、

日々、喜びと感謝の気持ちを絶えず持ち続けたい。

 

 

 

 

そうしていれば、「自分だけの波」が

自然に少しずつ、生まれてくる。

 

 

 

 

もうこれ以上、何も知らなくていい。

もうこれ以上、余分なものを得なくていい。

もうこれ以上、必要のないことをし続けなくていい。

 

 

 

 

もっともっと愚かでありたい。

でもそれは、同時に聡明さを持つということ。

 

 

 

そんじゃ。